そして、第26巻には面山禅師の年譜が収録されているが、今日はそこから、面山禅師によって、当時の宗侶に対し、如何にして『永平広録』が説かれていたかを見ておきたい。理由は、現代に於いても『永平広録』の敷衍は十全とはいえず、在家の方に対しては、市場に幾つかの書籍が見られるくらいで、宗侶向けの専門書もまだ揃わない状況である。
よって、今から250年近く前に、どのように学ばれていたのか、その一端を見て行きたい。なお、面山禅師には『永平広録』の上堂語や小参などを適宜抽出して、更に分類を行った『永平家訓綱要』(上下巻)という文献が存在するが、それが可能なほどに参究されていたことを、我々は予め知っておくべきだといえる。
正徳2年(1712)面山禅師30歳:二月・三月の際、老梅庵に在って『永平広録』を看る。四月初め、大智に入寺して、衆の為に『永平広録』を講ず。七月七日に至って講じ畢んぬ。
正徳3年(1713)面山禅師31歳:(七月)晦日、泰心に帰り、八月朔日従り、『永平広録』を講ず。九月廿日に至って講じ畢んぬ。
元文2年(1737)面山禅師55歳:此の秋、『永平家訓』を撰す。
あれ?意外なほどに記述が少ない?
正直なところ、もうちょっと色々な機会に提唱などをされたとばかり思っていたが、まだ正式な住職になる前の、30歳・31歳というかなり若い時分(今の数え方なら、もう1歳引かねばならない)に、それぞれ講述されたのみのようだ。それまで、相当な参究を重ねているとしても、凄い話である。面山禅師には若い頃から幾つかの逸話があるが、ちょうど上の引用文、30歳の時に関わる話を纏めてみよう。
面山禅師が30歳の時に『永平広録』を講じた「大智」とは、現在も相模国(神奈川県)平塚市内にある大智寺という曹洞宗寺院を指す。そして、大智寺に入る前にいた場所である「老梅庵」とは、同じ相模にあって、面山禅師24歳の4月15日から27歳の1月16日まで、1000日間門を閉じ、ひたすらに『正法眼蔵』を読み、坐禅をした場所として知られる。
老梅庵では門を閉じたとはいえ、人の往来はあり、毎日地元の篤志者(村長さんなど)は食事を提供し、月に6回髪を剃るという作業を供養した人もいたし、講義を聴きに来る人もいたという。よって、独り淋しく蟄居閉門したのではない。ただ、御自身は何処にも出ていかずに、只管に終日、参究されたのである。拙僧自身も思うことがあるが、若い頃にはこのようにして学ぶことが必要だと思う。
なお、大智寺に呼ばれた一件だが、29歳の時、京都鷹峰の源光庵にいたときに、大智寺の実秀和尚が招聘に来られて、「来夏結制の首職を請う」たと「年譜」に出ている。つまり、大智寺で正徳2年4月から行われる夏安居で、一座の首座になって欲しいとお願いされたのである。当時、首座になることは、ただの名誉ではなく、それをこなすだけの力量も必要だったとされる。
1612年(慶長17)に徳川家康が発した『曹洞宗法度』では、「二十年の修行を遂げざるに、江湖頭を致す事」をしてはならないと定め、この「江湖頭」が「首職(首座)」のことである。面山禅師が出家されたのは16歳の時だったとされるため、厳密な意味では「二十年」に及びないが、色々と「数え方」はあったようだ。
そこで、面山禅師は講述を行う2ヶ月前から『永平広録』を読んで準備をし、4月からほぼ一制中に当たる7月7日まで講述を行われた。後の面山禅師の提唱を見ると、まさに諸経論を縦横無尽に用いて、懇切丁寧に一句ごとを註釈する方法を採られたが、同様に行われたものと拝察される。
また、その翌年にも、自分がかつて修行した仙台の泰心院に帰り、8月1日から9月20日まで『永平広録』講述を行われた。期間からすれば、制中の解間になるため、安居に随喜していた山内大衆のレベルアップを目的にした初心者向けの提唱だったのではないかと勝手に思っている。ただし、両方とも提唱の記録が残っていないため、詳細は不明である。
なお、以上の通り『永平広録』の講述を行った面山禅師だが、その提唱録が残れば、なお良かったのにとは思うけれども、提唱の記録には侍者の存在が極めて大きいため、まだ正式な住職では無かった面山禅師の若い頃の提唱録が残らなくても、仕方ないとは思っている。
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