つらつら日暮らし

たわごとばかりでは修行にならぬ

どうにも、拙僧自身、様々な学びを続けていると、本当に我が身を省みなくてはならないような教えに出会うことがある。今日、紹介するのもそのような言葉である。

○廿五、一日人来り世間物語を為し帰る次で示して曰く、「人皆一大事を忘れてたわ事計りをつきて、一生空く過す物也。あの様な者はよせ度もなし。誰も機を抜かし付けたらば、心を取るべし。忘れて護る程無くては、事に合ふて不覚を取るべし。たくみて持つ間では、時々にぬける物也」。
    『驢鞍橋』上-25


なお、「」の部分が鈴木正三による苦言である。正三が拙僧のブログを見たら、こんな日常の事件やスポーツ・芸能ばかり書いてあるというので怒られそう。或いは、正三だけではないかもしれない。

寮中、世間の事・名利の事・国土の治乱・供衆の麁細を談話すべからず。
    『衆寮箴規


道元禅師は修行中に用いる衆寮という場所では、世間のことや名利のこと、政治の様子や、布施の多寡について語ってはならないとしている。逆を返せば、このようなことを話していた輩がいたからこそ、禁止したともいえる。世間のことを語れば、どうしても世間に対して愛執が湧き、修行道場から逃げ出したくなったり、わずかな暇を見付けては、何かと理由をつけて外に出ようとする。道元禅師の時代には、僧侶が官僚的な役割をしていたようなところもあったので、その立身出世に余念がなかった人もいたことであろう。今でも、似たようなことはあるかもしれない。わずかなポスト(郵便のことではない)を争うような場合には、特に顕著になる。

或いは、政治についても、本来僧侶は語るべきではない。良く、僧侶が世間の問題などに言及しないことを批判する人がいるが、その人は、このような規則を知らない。さらに、布施の多寡(供衆の麁細)を語るなんていうのは、問題外である。

ということで、正三が苦言を呈したのは何かというと、やって来ては世間話をして帰った人(おそらくは僧侶)がいたことを問題視している。そして、普段から緊張感を持って仏道者として生きるべきだとしているのである。そう思うと、正三は大乗仏教について、本質的に興味がなかったと思われる。

無論、本人は様々な人脈を使って、各地の寺院復興・新地建立などを行ったようだから、社会への貢献の仕方を知らないわけでも無いと思うが、それでも、「自未得度先度他」という気持ちがあったのかどうか・・・もうちょっと、正三の著作などを引っ張り出さないとダメのようだ。

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