祖忌〈達磨忌、十月初五なり。伝灯に出づ〉
堂司、疏を具し、先づ方丈に覆す。首座、香花等の供養を安排す。或いは昏鐘鳴、念誦諷経す。或いは斎前には、如しくは念誦せず。只だ出班焼香するのみ。挙経拈香して、回身せず。
『入衆須知』
おそらくは、清規の記述としてはこの辺が古いと思う。本書に先行する『禅苑清規』ではまだ立項されていないが、宋代の禅僧達の語録に「祖忌」が見られるようになる。そして、日付は「十月初五(五日)」であり、『景徳伝灯録』を典拠としている。
以て化縁已に畢るも、伝法して人を得る。遂に之を復救せずして、端居して逝す。即ち後魏・孝明帝の太和十九年丙辰の歳、十月五日なり。其の年十二月二十八日、熊耳山に葬り、定林寺に起塔す。
『景徳伝灯録』巻3「第二十八祖菩提達磨」章
ということで、以上の記録では、達磨尊者は後魏・孝明帝の太和十九年丙辰の歳(495年)の10月5日に遷化され、同年の12月28日に熊耳山(河南省)に葬られ、その地の定林寺に達磨尊者を祀る塔が建てられたとしている。そして、結構、この記述が一般的に知られるようになり、現代まで続く「達磨忌」の根拠となった。
そこで、達磨忌の法要に因む教えを見ておきたい。
達磨初忌、拈香す。
六宗の執を破り、道、五天被る。二祖の疑を断つ。
光流華夏、以て歯を撃ち毒を服すに致る。何ぞ斯に由ること莫きや。
休うこと言みね隻影、流沙を度ると。熊耳峯前の月、画の如し。
香を弁じて茗を盃す。遺音を追慕するの一念万年、真風墜ちず。
『虚堂和尚語録』巻2
これは、虚堂智愚禅師(1185~1269)の語録から引用したものである。上記一節の前にも、或る施主が依頼した達磨忌の上堂語が収録されているのだが、今回はこちらを見ておきたい。
達磨初祖忌に拈香された虚堂禅師は、このように説法された。中国に広がっていた六宗のとらわれを破り、その道(悟り、教え)は五天が被った。二祖慧可大師の疑いを断って、跡継ぎとした。
光統と菩提流支が達磨尊者に嫉妬して攻撃し、歯が折れて抜けてしまい、また六度にわたって毒を盛ったという。「何ぞ斯に由ること莫きや」とは、『論語』「雍也第六」に出る一句で、「どうしてそれ(道)に由らないことがあろうか」という意味であるが、ここでは、達磨尊者の道に依らないのは何故かと問い質しているといえよう。
そして、隻履を持った達磨尊者が、砂漠の流砂を渡ってインドに帰ったなどと言ってはならない、と述べており、葬られた熊耳山の前の月は、絵のように空に張り付いている、つまりは、当人の生死が問題ではなく、達磨尊者の悟りがしっかりこの人天を照らしていることを意味する。
最後に、達磨尊者のために香を焚き、供物を供え、その遺音を追慕する一念は万年に渡り、その真風が墜落することは無い、と述べたのであった。当方もまた、遺音を追慕する一念をしっかりと持ち、供養したいと思う。南無震旦初祖円覚大師菩提達磨大和尚、合掌。
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