撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問う、汝、還た虚空を捉得することを解すや。
西堂曰わく、捉得することを解す。
師曰わく、你、作麼生か捉う。
西堂、手を以て虚空に撮す。
師曰わく、你、虚空を捉うることを解さず。
西堂曰わく、師兄、作麼生か捉う。
師、西堂の鼻孔を捉えて拽く。
西堂、忍痛の声を作して曰わく、太殺人、人の鼻孔を拽いて、直に脱去することを得るや。
師曰く、直に須らく恁地に把捉して始めて得てん。
『正法眼蔵』「虚空」巻
ともに、馬祖道一禅師の法嗣とされる慧蔵禅師と、西堂智蔵禅師による問答である。さて、意味するところは、石鞏禅師が西堂禅師に、「そなたは、虚空を捉えることを理解しているか?」と尋ねた。すると、西堂禅師は「理解しています」と答えた。石鞏禅師は重ねて、「そなたは、どのように捉えているのか?」と尋ねた。西堂禅師は、手で虚空を摘まみ上げよう(=撮)としてみせた。しかし、石鞏禅師は「そなたは、虚空を捉えることを理解していない」と断じた。よって、西堂禅師は、「師兄(兄弟子たる石鞏禅師)は、どのように捉えているのですか?」と尋ねたところ、石鞏禅師はいきなり、西堂禅師の鼻を摘まみ上げると、引っ張った。
西堂禅師は、つらさを示す声を出して、「なんたることか、人の鼻を引っ張って、虚空へ脱去することが出来るでしょうか?」と述べたところ、石鞏禅師は、「こうやって捉えるところから、始めて虚空が得られるのだ」と答えた。
ということで、「虚空」の捉え方の問題である。或る意味、西堂禅師の捉え方は、イメージとして普通の人に合うと思う。だが、石鞏禅師は全く異なる見解を発し、西堂禅師の鼻を摘まみ上げたわけである。我々は「虚空」というと、空虚な空間を考えてしまいたくなるところ、現実に於ける一切が、虚空なのである。
この辺、例えば道元禅師は以下のように述べておられる。
おほよそ尽界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁、ひさしく虚空の霹靂をなせり。
『正法眼蔵』「虚空」巻
尽界とは、我々が生きているこの世界そのものだが、これは「容虚空の間隙なし」なのだが、この石鞏禅師と西堂禅師の問答を、「虚空の霹靂」だとしている。つまり、虚空の働きそのものだったということだ。つまり、今日は「鼻の日」ではあるが、我々の鼻は、「虚空」なのであり、仏道の真実を示すのである。
よって、今日という日、虚空の実態を得たいのであれば、自らの「鼻」に事実がある。いやまぁ、鼻だけではないが・・・
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