是の如き等の種種の因縁の故に、但だ十善業道を説く。
亦た自ら行い、亦た他人に教う。名づけて尸羅波羅蜜と為す。十善道、七事は是れ戒、三を守護と為すが故に、通名として尸羅波羅蜜と為す。
『大智度論』巻46「釈摩訶衍品第十八」
『大智度論』が、「十善道(十善戒)」をこそ、「尸羅波羅蜜」にするというのは、その通りなので、そこはまぁ良い。問題は、「十善道、七事は是れ戒、三を守護と為す」の箇所である。これをそのまま受ければ、「十善道」について、戒の部分と守護の部分とに分けて理解されていることになる。
それで気になったので、他にも同様の表現をしている仏典があれば、と思ったが容易には散見されないようなので、本書独自の立場と仮定して、見ていきたい。
それにしても、「十善道」を「七事の戒」と「三の守護」に分けるという時、どう配分されているのだろうか。
・三身業
不殺生
不偸盗
不邪淫
・四口業
不妄語
不綺語
不悪口
不両舌
・三意業
不貪欲
不瞋恚
不邪見
一応、以上が一般的な「十善戒」であるが、なるほど、「身口二業」に関することが「七事の戒」であろう。これは確かに、それをしてはならない、という理解になる。一方で、「意業」については、このまま「貪瞋癡の三毒」と適合するが、これらは、直接の持戒にはならない。むしろ、そうしないように自らの心を「守護」するという話になる。
というと、いや、戒律には「不瞋恚戒」もあったはずだろう、という人もいると思う。確かに、「不瞋恚戒」は梵網戒の「十重禁戒」に含まれているし、上記の通り「十善戒」にも含まれる。だが、他の「在家五戒」「沙弥十戒」などには入らないし、ましてや、比丘戒にも含まれない。
「瞋恚(怒り)」は、仏道修行の妨げとなるため、「三毒」には数えるが、直接の戒というより、他の戒で戒めている事柄が起きる原因になり得ると言える。そのため、「守護」である。他の、「貪欲・愚痴」もまた、同様の扱いを受けている。この辺が今回の記事で確認された。
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