それで、「副寺」について、まずは定義的なところから見ておきたい。
古時は監寺のみ。近日都寺と称するは、即ち監寺なり。副寺と称するもまた監寺なり。近代は寺院繁務なり、よって両三の監寺を請するなり。
道元禅師『知事清規』「監寺」項
以上の御垂示については、ご存じの方も多いと思う。道元禅師は永平寺に入られてから『知事清規』を示された際に、「副寺」が本来「監寺」のことであるとしつつ、寺務が繁多であるが故に、2~3人の「監寺」を請するとし、「監寺」の他に「都寺」や「副寺」と呼んだとしているのである。関連して以下の教えも見られる。
〈都寺・監寺・副寺〉監院、維那、典座、直歳、侍者等は、堂外の上間に在りて坐す。
『赴粥飯法』
ただし、ここは注意しなくてはならない。見て分かるように、「監寺」と「監院」が併記されている。ただし、これはおそらく本文の伝写に問題があったのだろうと推測される。要するに、本来は「監院、維那……」とあるところ、「監院」が三役となっていったので、「都寺・監寺・副寺」を追記したものが、本文に入ったのだと思われる。この辺、監院一役が正しいのか?都寺等三役が正しいのか?だが、本来は、三役にするところ、諸事情から「監院(または監寺)」に統合し直したのだと思われる。
これは、『典座教訓』を見れば分かる。
いわゆる知事とは、都寺、監寺、副司、維那、典座、直歳有るなり。
『典座教訓』
道元禅師の『永平清規』は6篇あるが、興聖寺で成立したのは『典座教訓』のみで、他は越前移転後と推定される。そこで、版本などから、当初は六知事だったのが、四知事になったことが理解できるわけである。ただし、必要に応じて「副寺」などは置かれたとは思われる。また、名称について、『典座教訓』では「副司」だけが「司」となっているなど不自然ではあるので、道元禅師に於いて「副寺」と「副司」の有意味的な使い分けはしていないと判断される。
それで、実は「五知事」だったのではないか?とも思える文脈がある。これは、大仏寺で示された教えだが、以下の通りである。
単寮にあるともがらと、首座・書記・蔵主・知客・浴主等と、到寮拝賀すべし。
単寮にあるともがらと、都寺・監寺・維那・典座・直歳・西堂・尼師・道士等とも、到寮、到位して拝賀すべし。
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、結制安居が始まった直後で、各寮の者が住持に人事(挨拶)する時の作法を示すが、良く見てみると、頭首も首座以下浴主(知浴)までの五頭首、知事も都寺以下直歳までの五知事なのである。そして、五知事になるとき、外れるのが「副寺」であることが分かる。ただし、その理由は分からない。道元禅師の会下には「庫司」という役目の僧がいて、この者が会計担当だった可能性が高いためである。しかも、「庫司」はいわゆる「結制」時には大活躍だったようで、こういう礼賀についても庫院から出て随喜はしなかったものか。
それで、四知事か?五知事か?六知事か?という話なのだが、現存最古の『禅苑清規』では、「四知事(監院・維那・直歳・典座)」であり、同清規には「都寺・副寺(副司)」という名称も出て来ない(後述するように「副院」が見える)。ただし、道元禅師が中国に留学した頃よりも少し早い、或いは同年代くらいの禅僧達の語録を見ると、圜悟克勤や虚堂智愚などが「副寺」の役職にあった者への法語を唱え、また、臨済宗の瞎堂慧遠などは「監寺・副寺・維那・典座・直歳」と、こちらは「都寺」を除いた五知事などを示している。要するに、監寺を中心に、他の都寺・監寺が寺院や安居の状況次第で拝請される場合があった、ということなのだろう。
それでは、後は「副寺」がどのような公務を担当していたのかを見ておきたい。なお、この解明は、【「知庫」って何だ?】の更なる理解を求めたものである(本当は、この記事はここから書き始めたのだが、知事の数の変遷がややこしかったので前半を足した)。本来、副寺と知庫、或いは庫頭は同じ役職のはずであった。それが、徐々に細分化されるに到った。拙僧自身、「知庫」の理解を難しくしているのは、「副寺」のせいではないか?と思っているので、その辺の解決を模索してみたい。
まずは、副寺に対する、中国成立の清規上の定義である。
古規に曰く庫頭、今の諸寺は櫃頭と称し、北方では財帛と称す。其の実、皆な此の一職なり。蓋し副貳して、都監寺の労を分かつなり。常住の金穀・銭帛・米麦の出入を掌る。随時、暦の收管・支用を上げる。
『勅修百丈清規』巻4「副寺」項
当清規に権威があったという観点からいっても、この定義が代表的なものであると思う。要するに、寺院の経済(特に米穀などの出入)を掌る役目だったのと、末尾に「暦の収管・支用を上げる」とあるが、これは住持などにその収支の帳簿を報告する役目だったことを意味している。よって、書かれてはいないが、副寺は数字に強くないと勤めることが出来ない役目であった。そして、やはり食糧などの管理をしていたわけで、『禅林備用清規』巻7「湯 列項職員」では、「副寺の職、職小さくも任重し。衆人の命脈を繋ぐ所なり。米麦当に須らく細潔なるべし。粥飯の精豊を得んことを貴ぶ」とあって、この辺の評価が、かなり現場に近いものだったと思われるのである。
それでは、日本ではどうだったのだろうか?
道元禅師については先ほど見た通りであるが一点、特に永平寺に入られてから、知事・頭首の任命・退任時に上堂をしておられるのだが、副寺については見られないのである(監寺は何度か行われている)。よって、先の通り、永平寺では基本、四知事(または五知事)だったものか?一方、瑩山紹瑾禅師の記録を見ておきたい。
次に首座・書記・蔵主・都寺・監寺・副寺の寮に送る。
『瑩山清規』
これは、結制安居に因んで行われる首座煎点の作法中に見える一節だが、頭首・知事の各寮を回る様子が理解出来、そこに「副寺」が見えるのだが、実際にどのような役職であったかは不明である。『幻住庵清規』のような感じだと「知庫」の方を重視することになるので、相互の影響度は不明。
讃説 恭しく惟れば
東班の都寺禅師、監寺禅師、悦衆禅師、副寺禅師、典座禅師。
西班の座元禅師、記室禅師、蔵司禅師、知賓禅師、知浴禅師。
単寮蒙堂、前資小寮、雲堂の清浄大海衆、隣峰頭角、江湖名勝、郷長同袍、暫到高人、諸位禅師。宗門の柱石、禅社の棟梁。各各珍重。
「總持寺開堂上堂」、『竺山和尚語録』
これは、大徹宗令禅師の法嗣である竺山得仙禅師の總持寺晋山時の開堂上堂になる。ここで、「五知事」を挙げているのが分かるが、無いのは「直歳」である。もう、この辺は確認可能な用例をただ並べていくしかない。しかも、役職や職責の詳細は掴めない。それはやはり、江戸時代以降の清規に依拠するしかないか?!
そこで、拙僧なりに調べてみたところをまとめると、面山瑞方禅師の『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「職務略訓」及び「常住銭穀結算法」を見る限り、どうも寺内の金銭や米穀の収支については、副寺と典座・知庫とが別個に行っていたような印象を得てしまうのだが、よく見ていくと、そうとも言い切れないらしい。らしいというのは、同じ面山禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻6「諸職法考訂」を参照すると、色々と厄介な話になっていることが分かる。
禅規の請知事に云く、「知事とは謂わく、監院〈有処、副院を立つるなり〉・維那・典座・直歳なり」と。これ、副院は副寺なれば、五知事明かなり。
まずは、以上の通りである。やはり、拙僧自身先に挙げたように、四知事・五知事・六知事という複数の数え方があったわけだが、それは『禅規(禅苑清規)』巻2「請知事」項の段階であったことが分かる。そこで、同項を見てみると、確かに監院に「副院」が立てられる場合もあり、しかも、同項の末尾には「副院・典座・直歳の如きは、即ち庫堂に就き、維那は堂司に就く」とあって、叢林内の寮舎の位置付けまで定義されている。そう考えると、「副院」が「副寺」であり、しかも庫院にいたことになる。この辺が分かりにくいところであるが、面山禅師は続けて以下のようにも指摘している。
・四知事の中に、有処立副院と云が、この庫頭にて、副寺なり。ゆへに勅規の副寺の下に、古規云庫頭ある、これ証なり。
・今比知庫と云ふ名は、もとは副寺などのことなり、〈中略〉この知庫は監寺・副寺のこと、監寺に副貳してつとむるより、副寺の名は起る、元来は一職なり。
・庫司とは寺の庫蔵を司どりて、金銀米銭を支収するゆへなり、それを知庫と云は、知は主也、義取主宰也と、字書に注して、俗にも知府知県など云官は、みなづかさどる義なり、主も司も同じこころゆへに、司の字を付たる職は、知の字にかへても、主の字にかへてもよぶ。
・ゆへに庫司をも、知庫と云、庫主とも云なり、
以上全て「諸職法考訂」参照
結局、先に挙げたように『禅苑清規』の段階で、副院(副寺)は庫院にいるため、面山禅師はこれを典拠に、「庫頭=副寺」とし、更に、「知庫=副寺」ともしている(これは、前回の記事[当記事中間に挙げたリンク先]でも見たところだ)。しかし、そうなると、両班に入る「副寺」とは、「庫頭」或いは「知庫」で良いのか?という話になってくるのだが、この辺についても、面山禅師の説は抜かりがない(なお、『僧堂清規』で諸法要の両班を示す際、一班6人である場合は必ず「副寺」が入る)。
六頭首の中に、別に庫頭を出せるは、別名の相違か。庫頭は副寺のことなれば、知事の中にこそ入べけれ、頭首の中にいるべき訣なし。
「諸職法考訂」
このようにある。これは『禅苑清規』のことを指しており、同書の巻3~4にまたがるように「六頭首」が並び、「首座・書状・蔵主・知客・庫頭・浴主」となっているのであるが、面山禅師は既に見てきたように、「庫頭=副寺」説を採るので、「庫頭」が頭首に入るのはおかしいという主張なのである。だが、これについて「庫頭」項を確認すると、意外なことが判明する。
庫頭の職、常住の錢穀の出入・歳計の事を主執す。得る所の銭物、即時に支收の管を上る。
『禅苑清規』巻4「庫頭」項
これは、先に挙げた『勅修百丈清規』に於ける「副寺」の配役とほぼ同じ職責であったことが理解できるだろう。ここで、我々は不思議な感情に把われてしまいそうになるのだが、一点、面山禅師が重大な思い違いをしている可能性に気付くのである。それは、面山禅師は「庫頭=副寺」だとしている。これについてはなるほど、後代はそうかもしれない。ところが、『禅苑清規』には「副寺」という用語は出て来ないのである。出るのは、「監院」項にあった「副院」であるが、『禅苑清規』上に見える「副院」の定義には、「庫院に就く」ことのみを示し、会計を担当していたかどうかは分からないのである。
よって、ここから、当記事の結論を述べておきたい。
①『禅苑清規』時に於いて、叢林内の会計は「頭首」の「庫頭」の担当であった。
②しかし、道元禅師の入宋時には既に「副寺」があったため、『典座教訓』では六知事を挙げて「副寺」も入れたが、『知事清規』では『禅苑清規』に従ったためか、「四知事」として「副寺」を外した。なお、道元禅師が「副寺」の役責をどう考えていたかは不明。会計担当だったとは言い切れない。『典座教訓』及び『正法眼蔵』「安居」巻に「庫司(おそらく「庫頭」と同義)」が見えるため、こちらが会計担当と考えるのが自然ではないか。そして、「安居」巻の「庫司煎点」を見る限り、「庫司」は知事並みの権限を持っていた可能性がある。
③中国の禅林では、『幻住庵清規』のように「庫頭」を「知庫」に改称した場合(ここではまだ頭首)があったが、『勅修百丈清規』の段階で「副寺」とし、会計担当の役目も負わせつつ「知事」の一職となった。
④日本では、中国成立の諸清規が時期を追って展開した一面があるが、実態としてはバラバラに入ってきて、閲覧の可/不可の問題も発生したことだろう。更に、曹洞宗の場合、江戸時代に「古規復古運動」が起きて、従来の諸清規が時期的な前後というよりも、並列的に扱われてしまった。そのため、宋代以前に成立した古規に戻すとはいうものの、江戸時代初期から中期にかけて配置されていた「六知事」が残りつつ、「庫頭」「知庫」などの役職名も用いられていたため、面山禅師のような強引な会通が必要になったのでろうと思われる。
ということで、以上である。そして、冒頭で述べたように近年は「副監院」という役職名が発生するなどし、この辺がまたややこしくなっているが、何てことはない。元々「副寺」はややこしかったのだ。そして、改めて「庫司」について書く必要が出てきたのであった・・・そして、字数的にも内容的にも実世界の論文レベルになってきてしまったと思った。
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