つらつら日暮らし

7月10日 納豆の日(令和6年度版)

今日7月10日は、語呂合わせで「納豆の日」らしい。それで、拙僧以前から、この件について紹介したい説話があったので、今日はそれを採り上げてみたいと思う。

◎或朝、諸生朝参に出づ、折柄門外を糸より細き声を流し、納豆売の過ぐるものがあつた。法王子諸生に示して曰く、「彼の納豆売は此の寒空に声を枯らして、毎朝々々東から西、西から南と八百八町の東京を売りあるいてゐるではないか、而して其の納豆を買つて呉れる真の同情者は果して幾人あらう、我が法王の道を喧伝するもそのとほりぢや、如何に筆を禿にし、舌をたヾらして伝道しても、真に信を以て法王の道を聴くものは、其の数僅に指を屈するだけのものぢやらう、然し其の人一人でもあれば我が伝道の目的は達したとせねばならぬ」と、頗る悲痛の語気を以て伝道難を説かせられしこともあつた。
    上館全霊「法王子と納豆売」、『近世高僧逸話』仏教館・大正4年、173~174頁、一部表現を見易く改めた


さて、この「法王子」とは誰かというと、拙僧が敬愛して止まない高田道見先生である。高田先生は、一時期愛媛県の瑞應寺に所住しておられたが、その後また東京に戻って、法王教を立ち上げて布教に邁進されたのであった。特に、「通俗仏教」という表現を大いに採用して、世間一般への仏教展開(これを通俗と表現しており、いわゆるの通俗的とは若干意味が違う)したのであった。

その中で、都内にいたときに、上記の訓示がなされたという。

意味としては、納豆売りの様子を下地にしながら、高田先生が布教についての思いを吐露されたものである。いや、拙僧も毎日このようなブログを書いている(これ自体が、高田先生を目指してのことである)が、高田先生が指摘された「如何に筆を禿にし、舌をたヾらして伝道しても、真に信を以て法王の道を聴くものは、其の数僅に指を屈するだけのものぢやらう」という、或る種の諦念は完全に共有され得る。拙僧などは、ただ「自信教人信」の想いだけで、こういうブログを書いている。少しでも興味を持っていただき、仏道を学ぶ方が増えれば良いと思うだけなのである。

よって、「然し其の人一人でもあれば我が伝道の目的は達したとせねばならぬ」というのも、その通りだと思う。この言葉、宗門では「一箇半箇の接得」と表現出来るだろう。

しかし、そう思うと、仏道というのは、常にマスにはならずに、少しの人が自らの信念でもって、少しずつ広めてきたものなのだろうと思うのである。

近年では、寺院経営のこととかあるから、余り“仏道を一箇半箇に伝えて”いるだけでは、意味は無いような時代なのかもしれないが、拙僧はたまたま今は、寺院経営にはそれほど関わっていない。よって、上記のような記事でもって、人々に伝えていきたいと思うのである。

今日は納豆の日であったが、すっかり拙僧の調子でお話しをしてしまった。

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