それで、「大乗戒」と「一乗戒」といった時、似ている言葉ではあるが、意味するところが異なる可能性について、考えを巡らす必要があると思われる。
まず、「大乗戒」について、その意義をよく理解できると思われる文脈を見ておきたい。
菩薩摩訶薩、是の如くの諸禁戒を護持し已りて、悉く以て一切衆生に施す。是の因縁を以て、願わくは衆生をして禁戒を護持せしめ、清浄戒、善戒、不欠戒、不析戒、大乗戒、不退戒、随順戒、畢竟戒を得せしめ、波羅蜜戒を具足成就す。
『大般涅槃経』巻11「聖行品第七之一」
以上である。ここからすれば、「大乗戒」とは、具体的な内容を持ってはおらず、ただ、大乗菩薩僧であることを自らに課した内容であるようにも思われる。それから、これは別の機会に記事にしたいと思っているが、『仏説大乗戒経』という経典が存在するけれども、この経典は「大乗戒」を説くものではなく、大乗仏教に於ける持戒・破戒の結果の一例を示す程度の内容である。
そのため、意外と「大乗戒」についても良くは分からないのである。
それから、「一乗戒」について、伝教大師に帰する『守護国界章』では、「一乗戒壇」建立の願いについて、書いてはいるものの「一乗戒」の定義や内容の説明は見られない。それから、最澄の門人であった光定による『伝述一心戒文』には、複数箇所で「一乗戒」への言及が見られるものの、例えば、法華一乗の道理との関連などが説かれるわけではなく、概念の規定が曖昧のまま用いられているのである。ただし、最澄『顕戒論』に見える一節は、「一乗戒」の射程を知る手がかりになるのかも知れない。
南岳・天台等、伝戒の師師・諸聖衆に帰命し、
我れ今一乗戒を顕発して、一切の諸有情を利楽す。
巻上の冒頭の偈
後半の2句に注目すると、一乗戒を明らかに発し、一切の生きとし生けるものを利楽するとしているのである。この、戒の功徳について、生きとし生けるものの区別を付けないという辺りは、まさに、「一乗戒」の意義を示すものと言えよう。
ところで、実は「一乗戒」への言及として興味深いのは、鎌倉時代の東大寺にいた凝然大徳である。
嘉祥大師の涅槃疏中、興皇大師の所説を引いて云く、本より小乗戒無し、唯だ大乗戒のみなるが故に、広説すること彼の如し。此れ即ち十方仏土唯だ一乗のみ有り、二無く三無し、方便の説を除くの意なり。
今、南山大師の立する所も亦た爾り。故に業疏の中、並びに内典録に法華経の十方仏土等の文を引いて、唯だ一乗戒等の義を成立するのみ。
香象丘龍等の師の義の途、亦た同じ。昔より已来、最極の一乗、戒法も亦た爾り。唯だ一乗戒のみなり。諸もろの小機の為に大中分を摘む。大機、本を見れば元来一乗のみなり。
『律宗綱要』巻上
こちらであれば、明らかに『法華経』「方便品」の一節を引きながら、二乗・三乗を否定しての「一乗戒」が宣揚されていることになっている。だが、用語は見られないと思うのだが、概念としては「方便品」が引用されているから、実質的には思想的に存在した、という話をしたいらしい。
しかし、面白いのは、天台宗で展開していたはずなのに、鎌倉時代くらいまで来ると、むしろ、律宗系の文献で「一乗戒」が見られるということだろうか。おそらくは、天台宗の状況を見つつ、そちらが「円頓戒」へとシフトした(或いは、本覚思想による無戒的状況)様子を見て、敢えて「一乗戒」を宣揚したのかな?とか思ってしまった。
雑考だから、このくらいで良いかな。
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