それで、今回は今少し、「匠」の字句に注目して記事にしておきたい。
いま、有道の宗匠の会をのぞむに、真実、請参せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
このように、道元禅師は「有道の宗匠」という表現をされていて、これは優れた指導者という意味である。
ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがふて正伝すれば、的旨あらはれて稟持せらるるなり、文字習学の法師の、しりおよぶべきにあらず。
『弁道話』
いや、むしろ先にこちらを見ておくべきであった。「得道明心の宗匠」という表現が見られるが、こちらもやはり、七仏からの妙法を伝持している優れた指導者を意味している。
石鞏・西堂よりのち、五家の宗匠と称する参学おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり、
『正法眼蔵』「虚空」巻
ただし、以上のような表現も見られ、注意が必要である。こちらは、「五家の宗匠」という表現が、所詮は「自称」に過ぎず、境涯や実力が伴わない場合があったということである。
行道は、導師の正と邪とに依るべき歟。機、良材の如し、師、工匠に似たり。縦い、良材為りと雖も、良工を得ざれば、奇麗未だ彰れず。縦い、曲木と雖も、若し好手に遇わば、妙功忽ち現ず。師の正邪に随って悟の偽真有ること、之を以て暁らむべし。
『学道用心集』「参禅学道は正師を求むべき事」章
結局、以上の通りで道元禅師は、「師、工匠に似たり」としており、優れた指導者は弟子という「良材」を上手く扱って、「奇麗」を顕わにする「工匠」に似ているというのである。そうなると、むしろ「師僧」とは同時に「師匠」でなくてはならないという結論に達するのである。
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