つらつら日暮らし

悉多太子の修学伝承への批判(拝啓 平田篤胤先生11)

前回の記事は、「釈尊降誕説話への批判」と題して、いわゆる「摩耶夫人の右脇から生まれた」とか、「天上天下唯我独尊と言った」に見るような、まさしく非合理的内容で語られる釈尊降誕説話に対して、篤胤がどう評したのかを見たが、今回は「悉多太子の修学」と題して、篤胤自身が参照した文献などを考えてみたい。

さて悉多が七歳の時婆羅門を師として手を習はす時、其師が梵字四十九字の手本を書き其音を教たる処が、悉多が問には、此国土の中に書が幾種あるぞ。またこの阿字に何等の義があるぞと問ふ。そこで其師も答が出来ぬときに悉多がいふには、すべて此国土の中に梵書あり、また佉楼書といふがあり、蓮華書と云があり、すべて六十四種あり、また阿字はこれ梵音声にして、字義に無上正真道の義があると云て、こまかに其事を諭し聞したで、師匠の婆羅門もへこみ果たとある。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』22頁、漢字を現在通用のものに改める


まずは、以上である。これは、悉多太子(釈尊の子供の頃の名前)がまだ7歳だった時、婆羅門を師として手習いを始めたという。その際、梵字四十九字の手本を書き、また音を教えたというのだが、悉多太子はより本質的な知識を問おうとして、インドの国中にどれくらいの書があるのか?或いは、梵字の一時、阿字にはどのような意味があるのか?等と問うたところ、その婆羅門が答えられない間に、太子は更に言葉を繋げて、「すべて此国土の中に梵書あり、また佉楼書といふがあり、蓮華書と云があり、すべて六十四種あり、また阿字はこれ梵音声にして、字義に無上正真道の義がある」と述べたという。

そこで、今回、この文脈の出典を探ったのだが、当初は『釈迦譜』かと思っていた。ところが、どうもその『釈迦譜』巻1「釈迦降生釈種成仏縁譜第四之二〈出因果経〉」が典拠とした、『過去現在因果経』巻1の方が典拠としては適切のようである。その文章は以下の通りである。

 年、七歳に至り、父王心念ふに、「太子、已に大なり、宜しく書を学ばしむべし」。〈中略〉爾の時婆羅門、四十九書字の本を以て、教えて之を読ましむ。于時、太子、此の事を見已りて、其の師に問うて言わく、「此れ何等の書なるや。閻浮提中、一切の諸書、凡そ幾種有るや」。師、即ち黙然として答える所を知らず。
 又復、問うて言く、「此の阿の一字、何等の義有るや」。師、又、黙然として亦た答えること能わず。
 内に慙愧を懐き、即ち座より起ちて、太子の足を礼して讃歎して言わく、「太子、初めて生まるるに七歩を行く時、自た天人の中、最尊最勝なりと言う、此の言虚ならず、唯だ願わくは為に閻浮提の書、凡そ幾種有るかを説け」。
 太子、答えて言わく、「閻浮提中、或いは梵書有り、或いは佉楼書有り、或いは蓮花書なり、是の如く等、六十四種有り。此の阿字は、是れ梵音声、又た此の字義、是れ壊すべからず、亦た是れ無上正真道義なり。凡そ此の如くの義、無量無辺なり」。
 爾の時婆羅門、深く慙愧を生ず。
    『過去現在因果経』巻1


これを虚心坦懐に見ていくと、悉多太子は7歳(数え年なので、今なら6歳)の時に、先生(家庭教師)を招いて勉強し出すのだが、その際、書や文字について教わったものの、既にその先生の知識などを超えていた、という話になっている。なお、『釈迦譜』との違いは、「此の阿字は、是れ梵音声」の部分が無く、『過去現在因果経』には入っているので、それが典拠の違いを確定させた一因である。

それから、この部分について、篤胤が引いた理由は、この後の文章との関係が大きい。

此後また野外へ出たる所に、一人の老人が頭白く背倔りやせさらぼつて杖にすがり歩み行を見て、側の者にあれは何じやと問ふから、従者があれは老人といふものでござると答へた所が、老と云ふはどうしたわけじやといふ、従者が云ふに、老といふは年つもりて色衰へ飯食も減じ気力も薄くなり、余命いくばくもなきものを老人といひますると云ふたれば、夫れはかれ一人のみさうか、また一切の人皆さうかと問ふ、一切の人みな悉くあのやうになりまするといふと、悉多が大きになげきてここにまたまた思ふには、年移り老の至ること電の如く、吾雖富貴豈独免耶、いかがして世の人が是を怖れぬ事であらふと云て、ますます世を厭ふ志が起て愁ひつつ帰つたといふ事でござる。これが十七歳のときでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』23~24頁、漢字を現在通用のものに改める


これは、いわゆる「四門出遊」の東門で、老人を始めて見て無常を観じた時の話について篤胤が言及している。この「四門出遊」は、太子であった時の釈尊が無常を観じ、沙門の道を志すきっかけになった逸話として理解されるところだが、篤胤はこの話を「十七歳」のときであったとしている。ただし、これも、『仏祖統紀』巻2などを見ると、「十七歳」はヤショーダラー妃との結婚であり、「四門出遊」は翌年であるとある。よって、「十七歳」の典拠は良く分からない。当方の調べ方が悪い可能性は、もちろんある。ただし、篤胤にしてみれば、17・18歳どちらでも良いということになるのかもしれない。次の一節をご覧いただきたい。

是につけて念へば、右申したる七歳のとき書を学んで色々とこましやくれた事をいつたり、また諸々芸典籍、天文地理、算数射御を始め何によらず自然に知ていると有るのは、みな跡からいつたうそなることの、ばけの皮が知れるでござる。なぜと云ふに六つ七つでそれほどのことを精密に弁へ知ていたほどの者が、十六七歳になるて人には病と云事があり、また老ると云事もあるわけを知らぬと云ふ事がどふして有ませうぞ、能く考へて見るがよいでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』24頁、漢字を現在通用のものに改める


以上の文章は、先に挙げた7歳の時の逸話と、17歳の時の逸話を比べて、7歳のときには書について実に該博な知識を誇っていたのに、一転して17歳の時の「四門出遊」では、老人という存在や、老いるという生物にとっての基本的な事象について知らないという話になっていることを、篤胤は「みな跡からいつたうそなることの、ばけの皮が知れる」と批判したのである。

よって、以上のことから、篤胤自身の釈尊伝に関する指摘を概観してみたのだが、釈尊伝は種類が多いが故に、一々の文脈で矛盾するポイントなどもあり、それらを丹念に示すと、斯様な批判になるということなのだろう。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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