三十七、凡そ受くる所の食、匙筯を把りて浄人の手中に於いて自ら抄撥して取ることを得ざれ。
三十八、匙筯を過して浄人に与えて、僧の食器の中に於いて食を取らしむることを得ざれ。
四十九、匙筯を用いて鉢椀を刮げて声を作すことを得ざれ、当に湯水を用いて滌蕩して取るべし、即ち鉢の光を損なわざれ、若し鉢の光を損なえば、鉢、即ち膩を受けて洗い難し。
「二時食法第八〈六十條〉」、南山道宣律師『教誡新学比丘行護律儀』、訓読は貞享3年版に基づいて拙僧
これは、中国の南山律宗の道宣律師(596~667)による「二時食法(いわゆる朝食[粥]と昼食[飯])」の指示を行った内容だが、同時にインドの律蔵で構築された比丘の食事法を、中国版にアレンジしたものとしても知られている。その中で、「匙筯」の使用法についての注意が、上記内容である。
ところで、「匙筯」という言葉、一般的には「匙」は「さじ(スプーン)」のこととされ、一方で「筯」が「箸」のことだとされ、更にはインドでは「さじ」は病僧などが使えるものだったが、「箸」は使われていなかったという。この辺、既に拙ブログでは【今日も「箸の日」らしい】の記事で明らかにしたところでもあるので、興味のある方はご覧いただきたいが、実は「筯」について、義浄は上記の記事の通り、律蔵には無いと述べているが、意外とそうでも無かったのである。
諸もろの年少の比丘にして出家して久しからざる者有り、提婆達、鉢鉤・鉢多羅・大揵瓷・小揵瓷・衣鉤・禅鎮・縄帯・匙筯・鉢支・扇蓋・革屣を以て、比丘の須いる所の物に随って、皆誑して之を誘う。
『十誦律』巻13「九十波逸提之五」
以上の通り、「律蔵」にも出ていることを確認したのだが、内容を良く見ると、義浄の言う通り、確かに仏教には関係が無いことであることが分かった。上記の内容は、仏教の教団を破ろう(いわゆる破僧罪)としている、提婆達多の振る舞いなのであった。そうなると、用具としての「箸」を否定するわけではないが、少なくとも仏教では使っていなかったことになるだろう。
そこで、先に挙げた「二時食法」では何を言っているかというと、まず「三十七」では、食事を浄人から受け取る際の作法として、浄人が持っている食器から、自分の箸で直接取ってはならないとされているのである。むしろ、浄人が配ったものを、そのまま丸ごと受け取るべきだとされている。「抄撥」とあるが、要するに自分の好き嫌いに基づいて、勝手に選り分けることをいう。
「三十八」では、今度は自分の箸などを浄人に与え、自分の食器から、食べ物を取らせるようなことがあってはならないとしている。恐らくはこちらも、好き嫌いに基づいて、要らないものを返そうとする方法だったと思われる。
「四十九」は上記2項目とは異なり、匙や箸を用いて食器の表面をこそげて、音を出してはならないとしている。湯水を食器に入れてもらい、残った食材をふやかすようにして取るべきだというのである。何故最初の方法がダメかというと、「鉢の光」が失われるからだという。「鉢の光」というのは、今でいうところの「食器の表面加工」の話である。どういう材質の食器だったかにもよるのだが、表面加工がされていたらしく、それがダメになると、食事をした際に汚れが付き、取れにくくなるのが問題だという。
ただし、この「表面加工」について、鏡面仕上げみたくするのは良くないとされる。『摩訶僧祇律』巻25に「鉢を熏じて光を現じ、鏡を以て面を照らすは、是れを非威儀と名づく」とあるためである。表面加工自体は必要だが、鏡面加工はやり過ぎということなのだろう。
他に、同様の指示を出している事例が上手く見付からなかったので、実際にそうだったかどうかまでは分からないのと、「箸」の話ではないので、今日はここまでにしておきたい。
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