つらつら日暮らし

9月2日 宝くじの日(令和4年度版)

今日は9月2日、語呂合わせで「宝くじの日」である。

9月2日は「宝くじの日」!(宝くじ公式サイト)

詳細は上記サイトをご覧いただければ良いのだが、当方ではまた別の角度から「くじ」について考えてみたい。ところで、「くじ」というと、神意を問うたり、未来を知ったりと、意外と宗教との親和性が高い。ただし、仏教的な観点だと、この「くじ」はどう判断されるのだろうか?そもそも、未来の良し悪しを知るなどという時、「くじ」などに「外注」しても良いのだろうか?

と思っていたら、その辺を指摘した文章を見付けたので、見ておきたい。

生死の路頭を認錯して、去来を出づるの閒話を説き、一世の人忙を惹き得て、終日に籤を求め卦を打つ。
    『林野奇禅師語録』巻8「復益城姚中丞」


意味としては、本来は仏道の一大事であるべき生死について誤って理解し、去来から出て自由になるというような下らない夢物語のみを説き、その時代の忙しい人々を惹きつけ、何をやっているかといえば、終日、籤を引き、八卦を打つだけであった、という話である。つまりは、生死について明かすべき、仏教とは関係が無い行いであったという。これは、中国明代の偈頌であるが、実際には各時代で同じようなことが行われていると言って良い。

そこで、この様子に対して、改めて正しい仏道のあり方を示したのが、以下の偈頌である。

生死の路頭を識らんと要し、居常にして閒話を説くこと莫し、但だ能く慮を息め縁を忘じ、籤を求め卦を打つことを用いず。
    同上


こちらは正しい仏道である。余計な教えなどにはとらわれることなく、ただ、思慮分別を止めて、生死の真実をしっかりと徹見すれば、籤を引いたり、八卦を打ったりすることは無いというのである。これはつまり、自己自身の生死について、その未来を知ることを外注していない。どこまでも、自分で修行し、自分を救うのである。

「くじ」について、例えば、人同士が争っているとき、敢えて「神意」を問うことで、解決する場合がある。つまり、判断を神に委ねるのである。ただし、自己自身のあり方を知るという時、果たして神などに外注しても良いのだろうか?そうではなく、自己自身の責任と努力で、明らかにしていくべきであろう。

「宝くじの日」なのに、くじを否定したように見える文章になってしまったが、真意はそこにない。あくまでも、くじの使い方を間違えないようにすべきだという話なのである。

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