将に叢林に入るには、先づ道具を弁ずべし。中阿含経に云わく、蓄うる所の物、身を資するべきは、即ち是れ善法増長の具なり。菩薩戒経に云わく、資生順道の具なり。
『勅修百丈清規』巻5「弁道具」項
以上の通りである。ここで「道具」については、『中阿含経』を典拠として挙げつつ、「善法増長の具」とし、また、『菩薩戒経』を典拠として挙げつつ、「資生順道の具」だとしている。つまりは、自分自身の身の助けとしつつ、善法に順うための「具」を意味しているといえよう。
ところで、ここで挙げられた『中阿含経』や『菩薩戒経』だが、実際の典拠はどうだったのだろうか?少し調べてみたが、どうも、この一節は「孫引き」だったらしい。何故ならば、『釈氏要覧』巻中の「道具」項や、『翻訳名義集』の「犍稚道具篇第六十」と全く同じだからである。よって、後で成立した『勅修百丈清規』が、この辺の文献(特に前者)から引いたのだろう。
さて、そこで更に調べてみたが、『中阿含経』には、「善法を増長す」を意味する用語が複数散見されるが、「道具」としての説示はちょっと見出すことが出来なかった。一方で、『菩薩戒経』というと、だいたい『梵網経』を意味するものかと思うが、関連する用語は見られない。ただし、『優婆塞戒経』には「順道資生」という用語が見られたので、おそらくはこの辺を指しているものかと思う。
ということで、改めて「道具」について調べてみたが、以下の一節を見出した。
是の故に、道具、必ず須らく具すべきなり。
太賢『梵網経古迹記』巻下
これは、『梵網経』に説かれる「十八種物」についての説示だが、ここで「道具」を必ず具えなければならないとしている。つまり、「十八種物」は仏道修行にも役立つし、同時に、菩薩比丘の身を資するものでもあったのである。
故に十八、常に其の身に随えるは、鳥の二翼の如きものなり。道具、已に足りれば、多事より離れるが故に。
同上
この「多事」というのは、世俗的な関わりのことを指している。そして、上記の一節は特に、初心の菩薩比丘が世俗の多事から離れることで、仏道修行に専念させるための、「十八種物」という道具を用いるべきだという。そして、おそらくはこの辺を「資生順道の具」だとしているのだが、実際の『梵網経』には「十八種物」はあるが、用語は無いということであった。
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