一、国博士
孝徳天皇の紀に云く、天豊財重日足姫天皇〈皇極〉四年六月庚戌云云、
沙門旻法師を以て、国博士と為す〈類史〉。
『緇門正儀』9丁裏、訓読は原典を参照しつつ当方
上記一節だが、項目の通り、「国博士(国の博士)」というのに、沙門旻法師が充てられたという。年代は皇極天皇4年(645)6月である。色々と調べてみると、「国博士」とは、大化の改新時に、唐の諸制度を輸入し制度化するための政治顧問だったそうで、後には名前だけ同じで、日本国内の諸国に配置され、国司の監督の下、国学生(国毎に設けられ、郡司の子弟が学ぶ「国学」の学生)の教育・指導にあたったという。
今回は、最初の政治顧問に該当する。そのため、いわゆる仏教特有の役職とはいえないのだと思う。元々、旻法師(一説に、日文法師。元々は百済系の渡来人僧だったという)は、小野妹子の遣隋使に伴って中国に渡り、現地で20年以上留学した。その結果、仏教もだが、それよりも易学を日本に伝えたことで知られており、そちらで評価されたのだろう。
その上で、今回の一件で引用されたと思うのは、『日本書紀』巻25だが、そちらでは「沙門旻法師・高向史玄理を以て、国博士と為す」とある。仏教に限らないというのは、上記の通り「高向史玄理(たかむこのくろまろ)」が一緒に任命されていることからも理解出来るだろう。
ところで、実際の旻法師の活動について、特に知られるのが以下の一節である。
是の月、博士・高向玄理と釈僧旻に詔して、八省百官を置く。
『日本書紀』巻25
これは、大化5年(649)2月の項目である。「八省百官」とは太政官に包摂される八省と、その管轄下にある諸官司や官人の総称であるという。よって、国博士任命後も、数年は明らかに活動されていた。また、白雉元年(650)にこの元号への改元のきっかけとなった白雉(キジのアルビノ)の出現について、旻法師は「是れ即ち休祥(休祥は、吉祥に同じ)」と明言し、いわゆる恩赦を行うように勧めている。
是の月、天皇、旻法師の房に幸し、而して其の疾を問い、遂に口に恩命を勅す〈或る本、五年七月に於いて云く、僧旻法師、阿曇寺にて病に臥す。於是に於いて天皇幸し、而して之に問う、仍ち執其の手を執りて曰く、若し法師、今日亡くなれば、朕も従いて明日、亡す〉。
六月、百済・新羅、使いを遣わし調を貢し物を献ず。処々の大道を修治す。天皇、旻法師の命終を聞き而して使いを遣わして弔い、并びに多く贈を送る。
同上
こうして、以上のように白雉4年(653)5月に、孝徳天皇が旻法師の僧房に来られて見舞われたが、法師は翌月没したという。以上のように、釈雲照律師の文献が無ければ、旻法師のことを知る機会も無かったであろうし、拙僧個人としては大変にありがたい学びとなった。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
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