凡そ僧尼、苦使犯せること有らば、功徳を修営し、仏殿を料理し、及び灑き掃う等に使え。須く功程有るべし。
若し三綱顔面って使わずば、即ち縦せる所の日に准えて罰苦使せよ。
其れ事の故有りて、聴許すべくば、並に其の事の情を審らかにして、実を知りて、然して後に請うに依るべし。如し意故有りて、状無きを輙く許せらば、輙く許せる人は、妄りに請える人と罪同じ。
『日本思想大系3』220頁を参照して、訓読は拙僧
要するに、僧が苦使(「肉体労働を基本とする罰」が与えられる罪のこと)を犯した時の対応についての1条である。内容に伴って段落を付けておいたので、それぞれに説明しておきたい。まず、最初の段落は、苦使を犯した者に、どのような罰を与えるか、という話になっており、最初は「功徳を修営」とあるので、何らかの功徳が起こる法要などを行わせたことを意味している。
謂わく、経典を書写し、仏像を荘厳するの類を云うなり。
『令義解』10丁裏、訓読は原典に従いつつ拙僧
写経や、仏像の荘厳のために、何らかの金銭を納めることを意味している。それから、「仏殿の料理」について、そもそも「料理」とは、「物事をうまく処理すること」を意味する。ここでは、食事の調理を意味しているわけでは無い。『令義解』では、「謂わく、塔廟を丹堊するの類を云うなり」(前掲同著・同丁)とあるので、寺院の伽藍を赤く塗る作業を行うことをいう。現代の南都仏教寺院を見ていただければ、薬師寺や興福寺など、再建がなった寺院は真っ赤であるが、それを維持するための作業である。そして、「灑き掃う」は文字通り、掃除のことである。灑は水まきなどで、掃は掃き掃除である。ただし、これらには全て、定められた「功程(分量)」があるべきだとしている。軽すぎても重すぎてもダメだということだ。
2段落目だが、本来これらの苦使を与えるべき三綱が、顔面(おもねる、の意)して、苦使を与えなかったのであれば、そのような無理をした日に戻して、改めて罰苦使をさせなければならない、の意味である。
3段落目だが、正当な理由(例えば、僧尼自身の病や、身内の不幸など)があって、罰を行わないことを許したのであれば、そのことを詳しく確認しておき、後に、それを請うべきだという。しかし、三綱の依怙贔屓などで、勝手に苦使しないことを許した者は、その許した者も苦使を犯した者と同じ罪を得るという。
要するに、罰を如何にして与えるかということの詳細を決めていることが理解出来よう。人治ではなく、法治を目指したのである。
【参考資料】
・井上・関・土田・青木各氏校注『日本思想大系3 律令』岩波書店・1976年
・『令義解』巻2・塙保己一校(全10巻)寛政12年(1800)本
・釈雲照補注『僧尼令』森江佐七・1882年
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