上堂、僧問う、無心、即ち是れ戒なり。如何なるか是れ無心戒。
師云わく、野色に寒霧籠もり、山光に暮煙を斂む。
『古雪哲禅師語録』巻4
中国明代の禅僧・古雪真哲禅師の言葉であるが、ここで「無心戒」について問われている。それに対し、自然の風景を読み込むことで、「無心」を表現したものとなっている。この辺、徹底無心を追究すると、自然の様子に自ずと展開されることを意味している。
そこで、問題も残る。つまり、その無心の様子が、「戒」になるかどうか、である。そうなると、明らかに異なる宗義を持つ宗派も存在している。
即ち知る、全心是れ戒なり、全戒是れ心なり。心を離れて戒無く、戒を離れて心無し。
南嶽慧思『受菩薩戒儀』
これは、伝説的な天台宗の祖師となる南嶽慧思の見解ともされる文脈だが、ここで、「心を離れて戒無く、戒を離れて心無し」としている。よって、おそらくは「無心戒」という発想には至らないと思われる。
若しくは心有りて作せば、即ち是れ犯戒なり。犯有るが故に持有るなり。若しくは心無くして作せば、則ち犯と名づけず。犯の義、持つと説かざるなり。故に心を重んじて戒を発す、心無ければ則ち戒を発せざるなり。
天台智顗『四教義』巻12
そこで、更に中国天台宗の祖師の見解を見ていたところ、無心戒を明らかに否定している様子が見られたので、上記の通り紹介しておきたい。つまり、天台智顗は、戒について持犯を前提としている。その点で、持犯には必ず「心」が相即するので、無心戒が否定されていることになる。
つまり、天台宗では、無心戒は説かれないことになる。
よって、先に挙げた禅僧の見解について、無心戒の「戒」は、持犯では無くて、存在性に由来する。そのため、自然に於ける様相もまた、戒になる。それは、野色・山光という有り様自体に、戒が現成しているのである。しかも、自然は、我々人間の計らいを超えた存在として理解されている。そのため、無心戒を突き詰めると、自然の世界にたどり着くのである。
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