爾の時、釈迦牟尼仏、初め蓮華蔵世界に現じしより、東方より来りて天王宮の中に入りて、魔受化経を説き已りて、南閻浮提の迦夷羅国に下生したもう。母を摩耶と名づけ、父を白浄と字く。吾を悉達と名づく。七歳にして出家し三十にして成道す。吾を号して釈迦牟尼仏となす。寂滅道場に於いて、金剛華光王座に坐し、乃至摩醯首羅天王宮にして、其中次第に十の住処にして説く所なり。
時に仏、諸の大梵天王の網羅幢を観て因て為に説く。無量の世界猶お網孔の如し。一一の世界、各各不同別異なること無量なり。仏の教門も亦復是の是し。吾今此の世界に来ること八千返なり。此娑婆世界の為に金剛華光王座に坐し、乃至摩醯首羅天王宮にして、是の中の一切の大衆の為に略して心地法門品を開き竟んぬ。
復た天王宮より下りて閻浮提菩提樹下に至りて、此の地上の一切衆生・凡夫・痴闇の人の為に、我、本盧遮那仏心地中の初発心の中より常に誦す所の一戒光明を説く。金剛宝戒は是れ一切仏の本源、一切菩薩の本源、仏性種子なり。一切衆生皆仏性有り。一切の意識色心、是の情、是の心あるいは皆仏性戒の中に入らん。当当に常に因有るが故に、当当に常住の法身有り。是の如くの十波羅提木叉をもて、世界に出ずる。是の法戒、是れ三世一切の衆生頂戴受持すべし。吾れ今、当に此の大衆の為に重ねて十無尽蔵戒品を説く。是れ一切衆生の戒の本源、自性清浄なり。
下線は当方
どうやら、釈尊はどこかとこの世界とを往復していたようだが、どこだったのか。とりあえず、梵天の網を見ていること、そして盧舎那仏の存在を前提に説くことから、『梵網経』が、『華厳経』の影響下にあることは良く分かるが、その世界に於いての釈尊は、一体どういう存在なのか?少なくともこれを見ている限りには、既に別の世界に於いて成道していたようで、しかし、更にそこからこの世界にやってきたという話になっている。この世界にやってきて、何をしたかといえば、まさに両親の下で生まれ、出家し、更に成道をして見せたことになる。これは、本来成仏している釈尊が、「方便」でもって、この世界に於いてもそれが可能だということを、一切の衆生に知らしめたことになる。
よって、この本来成仏でありながら、更に成仏するという本覚門的な思想を下にしているから、その釈尊が説く戒思想もまた、本覚門的な内容になるのだろうか。この本覚門的な内容になる戒思想ということで、最澄の大乗戒にも多大な影響を与えた、いわゆる「金剛宝戒・仏性戒」が出て来るわけである。金剛宝戒というのは、不壊であり一切の仏・菩薩の本源になる。いわゆる、成仏するための原動力ということになるが、それが、一切の衆生にも具わっている。大乗仏教では、この仏性を基盤にして成仏するともいう。
仏性は、『大般涅槃経』「獅子吼菩薩品」などでも説かれるように、一切衆生が皆有しているものとされる。我々自身に対して起きる一切の現象、或いは我々自身の想いや心そのものも、皆仏性戒に入っている。仏性戒は不壊であり、また釈尊の久遠成仏をも担保する基盤だから、まさに仏性そのものが、一切の原因(自性)になる。だからこそ、これを如来蔵ともいう。一切の自性だからこそ、釈尊の法身も常住である。
であれば、この仏性に基づいて説かれる「戒」とは、現実に於ける相対的な価値観を有しないことは明らかで、よって、大乗戒の実践とは、それ自体丁寧になされるべきではあるが、同時にこの戒への信が、自らの仏性への信ともなり、依って、成仏への通路とも成っていく。『梵網経』には以下の偈頌がある。
諦らかに聴け我れ正に、仏法の中の戒蔵、
波羅提木叉を誦す。大衆、心に諦信せよ。
汝は是れ当成の仏、我は是れ已成の仏。
常に是の如きの信を作さば、戒品已に具足す。
一切の心有らん者は、皆応に仏戒を摂くべし。
衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。
位、大覚に同じくし已る、真に是れ諸仏の子なり。
本覚門的な思想を有しながら、釈尊がこの世界で成道したように、同じくこの仏戒を受けることによって、仏との関係を繋ぎ、そして自ら成仏していく。盧舎那仏は、自分自身を「已成の仏」であるとする。已に仏に成ってしまった存在だが、大衆に対しては「当成の仏」という。まさにこれから成仏する存在であるといえよう。しかしながら、その存在性には、本来成仏が既に担保されているわけであり、だからこそ、本来成仏している事実そのものが、我々自身を修行へと促し、そして成仏を可能ともする。
『梵網経』では、他のいわゆる声聞戒と同じように、戒を唱えることが重要視(四十八軽戒の一にもなる)され、後には「菩薩戒序」という序文も、同じように読誦される対象となる。「菩薩戒序」は、自ら自身の無常を悟り、そして修行するように促す内容だといえるが、これも極めて重要なことだといえよう。
さて、このように、釈尊の伝記は、その実際の様子が換骨奪胎されて、本来仏の方便となり、そして、我々衆生の存在もまた、方便として、一種の仮象として存在していることになるが、我々自身、その様子を知れば、自己自身の仏性に気付き、仏性戒に気付くことになるといえる。仏性戒に催されて、我々自身の修行は不壊不退という堅固さを持つことにもなり、これこそが菩薩に於ける戒体の原点にもなる。しかし、この堅固さは、世界に於ける相対的な有無の価値を超えている。
そういえば、結局本題になった「往復八千返」の数の話から始まって、不明な点が少なくないという話で終わってしまいそう。結局、この話、何なんなのかな・・・中国の『梵網経』註釈書を見ると、具体的な数の問題というより、釈尊の慈悲を表す数字だと解釈している場合が多いようだが・・・浄土真宗で蓮如上人が聖教扱いしたという文献にもこうありました。
釈尊もいかばかりか往来娑婆八千遍の甲斐なきことをあはれみ、弥陀もいかばかりか難化能化のしるしなきことをかなしみたまふらん。
『安心決定鈔(末)』
やっぱり慈悲か。
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