奧法師の菩薩戒鈔に、既に濾の得已りて別に一つの放生盆を置き、而も安詳せしめて之に水を置き、以て生命を護せしむ。
これは、「瀘水曩」についての指示である。「瀘水曩(または漉水曩)」というのは、水の中にいる虫などを適切に避けて、生き物を殺さないようにしながら飲むための法具なのだが、釈尊の時代から重視され、いわゆる「比丘六物」に入るほどである。そこで、その更に具体的な使い方が書かれたのが、上記一節であると言えるのだが、典拠となっている文献は何なのだろうか?
『梵網経』の註釈を書いた「奥法師」として調べてみると、唐代に伝奥(北京石壁寺沙門と名乗る)という人がいて、『梵網経記』2巻を著している。そのため、この人かと思ったのだが、どうも『梵網経記』には上記一節は全く出てこないことが分かった。また、名称も『菩薩戒鈔』と『梵網経記』という具合で少しく異なっている。よって、おそらくは別の文献を見た、という風に理解しておきたい。
そこで、他の文脈である。
奧法師の菩薩戒経鈔に云く、今、寺中を見るに常に麁布を以て之と為す。乖角すること極甚なり。
こちらは、「瀘水曩」の製法に関する話である。つまり、各地の寺の様子を見てみると、この袋を作るのに、「麁布(粗い布)」を用いていることを指摘するのだが、それは本来のあり方と異なっていると批判したのである。こちらも、最初の文脈同様、他の文献には出てこないようなので、これ以上遡ることは出来ないのだが、「瀘水曩」を作る際の布については、以下の規程が存在しているようだ。
凡そ律中、一切の水、倶に漉水曩を用ゆ。或いは細熟絹、或いは細綿布ならば、可なり。爾も若し熟絹ならば更に好し。生絹は小虫、直ちに過ぐ。余は則ち堪えず。
『経律戒相布薩軌儀』
これは、中国明代成立の文献のようだが、以上のように「漉水曩」を作る際の布について言及されている。一部の布の場合、虫が通り抜けてしまうので、よくないとしている。なお、「細熟絹」「細綿布」「熟絹」「生絹」という布の実際の様子については、良く分からない。ただし、「麁布」とは目の粗い布だと思われ、これだと濾す意味が無いので、否定されるということは分かる。
奧法師云く、印度の法則、僧徒出入して乃至乞食す。漉袋常に須らく身に随うべし。此の物、此の方に停り来ること久しし。苦なる哉、苦なる哉。故に律に云く、寧ろ渇を忍びて死ぬべし。終に死しても蟲水を飲まざれ。何を以ての故に、一たび水を飲む時、無量の命を損す。一日、蟲水を飲めば、罪過、一生を屠す。特に須らく之を誡むべきなり。
さて、ここが最後になるのだが、上記の通りインドでは僧侶が寺院から出て乞食(托鉢)する時には、この濾水嚢を必ず携帯するのだが、その意義について、「律」を引き、「寧ろ渇を忍びて死ぬべし。終に死しても蟲水を飲まざれ」だとしている。これは、文章が一致するわけではないが、意義としては『摩訶僧儀律』巻18「明単提九十二事法之七」に一致する教えがあり、同類の文章は中国成立の律宗文献にも存在しているので、これは良く知られたものだったといえよう。
なお、「一たび水を飲む時、無量の命を損す」や、「一日、蟲水を飲めば、罪過、一生を屠す」なども、よく使われた表現なのかな?と思い、それぞれ調べてはみたが、全く同じ字句の文脈を見出すことは出来なかった。よって、何らかの標語的なものとして、奥法師が使ったのかもしれない、ということだけ申し上げておきたい。
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