五祖の堂前に歩廊三間有り。供奉の盧珍を請して、『楞伽経』の変相、及び五祖の血脈図を画かせて、流伝供養せんと擬れり。
『六祖壇経』
これはちょうど、六祖の地位をめぐって、神秀と慧能とが競う場面で出て来る箇所である。そして、「五祖の血脈図」という指摘がありますが、果たしてこれが何を意味するかが気になるところである。然るに、一般的に入手できる『六祖壇経』の本などを見ますと、次のような指摘がある。
五祖血脈図――初祖達磨から五祖弘忍に至るまでの伝法相承の系譜を図示したもの。
中川孝氏著『六祖壇経』タチバナ教養文庫、44頁
・・・う~む。これは本当に当時のありようを考察された上での註釈だろうか。いや、要するに現代的な状況から類推して古代の状況を定めている可能性もあり、ちょっと難しい。なお、「流転供養」するだけの価値がある物だということは、五祖にとっては他人に示して、そして守らせる必要があるということになるだろうし、それは五祖自身が担っている伝燈を示す物だという可能性もあるが、しかし実際のものは良く分からない。
なお、この後五祖から伝衣・伝法した六祖慧能は、或る時弟子達に向かって、自らが担っている法系を示したことがあります。しかし、これは「血脈図」という物ではないようである。
師、先天二年八月三日に至り、食後報じて言う、「汝等各位に着いて坐せよ、汝と共に相別れん」と。
時に法海問うて言う、「此の法は上より今に至るまで、幾代にか伝授せる。願わくは和尚の説きたまわんことを」と。
師曰く、初め六仏、釈迦(第七)、迦葉、阿難、末田地、商那和修、
優波毱多、提多迦、仏陀難提、仏陀蜜多、脇比丘、富那奢、馬鳴大士、
毘羅尊者、龍樹大士、迦那提多、羅睺羅多、僧伽那提、僧伽耶舍、鳩摩羅駄、
闍夜多、婆修槃頭、摩拏羅、鶴勒那、師子比丘、婆舍斯多、優波掘多、
婆須蜜多、僧伽羅叉、〈後魏〉菩提達磨、北斉恵可、隋朝僧璨、唐朝道信、
弘忍、恵能。
師曰く、衆人よ、今当に法を受くべし。汝等は後に逓相に伝付し、須く稟承有るべし。約に依って宗旨を失すること莫れ。
前掲同著、287~288頁
これまた、過去七仏から西天二十八祖、唐土六祖が示されているので、今の感覚からすれば、「血脈」にはなると思う。もちろん「血脈図」ではないが、同様の著作や説法というのなら、栄西禅師の『興禅護国論』「宗派血脈門」にも見えるし、道元禅師の『正法眼蔵』「仏祖」巻にも見える。実際に、以上に見ている「慧能三十三祖説」自体は、紆余曲折あって成立したようで、各文献によって数え方も違うし、或いは「三十三祖」という数自体も一定していない。なお、以上に見ているのは「三十三祖」説である。そして、この「三十三祖」について、以下の提唱を見逃してはならないところである。
曹渓古仏、あるとき衆にしめしていはく、慧能より七仏にいたるまで四十祖あり。
この道を参究するに、七仏より慧能にいたるまで四十仏なり。仏仏祖祖を算数するには、かくのごとく算数するなり。かくのごとく算数すれば、七仏は七祖なり、三十三祖は三十三仏なり。曹渓の宗旨、かくのごとし。これ正嫡の仏訓なり。正伝の嫡嗣のみ、その算数の法を正伝す。
『正法眼蔵』「仏道」巻
これは、道元禅師が慧能禅師の言葉を受けて示されたことである。普通ならば釈迦牟尼仏までを過去七仏、そしてその後の祖師方を仏祖各別で数えるところだが、道元禅師は慧能禅師の教えから、仏祖一体論を唱え、七仏と三十三祖を合わせて「四十仏」であるとしたり、或いは「四十祖」だという指摘もある。これこそ、仏を遠い存在とすることなく、あくまでも以心伝心によって、仏祖が一体の悟りを得るという信仰を表明した語句であるともいえる。
そして、このように仏祖の系譜自体への信仰を促すものとして、「血脈」の機能があるともいえるが、その原初は五祖弘忍ということになるものか。確かに、既に伝教大師最澄には『内証仏法血脈譜』があるけれども、これは六祖慧能を経ないで相承された系譜に関する「血脈譜」になる。よって、『六祖壇経』では、六祖が相承した法系を示されるが、それ以外の系統にも、同じように法系を図示したり表明したりする機能を持った事蹟があったということか。
なお、達磨大師撰とも伝えられ、今では偽撰とされる『血脈論』がある。しかしこれは、法系を示す著作というよりは、以心伝心の理念を示す内容である。無論、このような理念を図示し、更に法の連続性を人の連続性と重ねる「法系」を付加したのが『血脈図』でだろうから、こういう理念が内在化されないと話にならない。しかし、五祖血脈図の伝統も、その後の禅宗では余り見えないし、ホントこの分野の研究って難しい。
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