第五十三章 二季彼岸
春秋二季彼岸会のことは、彼岸弁疑の説を是とすべし、その疑濫をえらび正説を彰はす、
彼岸といふ名、源氏行幸の巻にもひがんのはじめにて、いとよき日なりけりといひ、乙女巻にもひがんのころほひわたりたまふ、一たびにと定めさせたまひしやと、さはがしきやうなりとて、中宮はすこしのべさせたまふといへり、
源氏物語は古き書なり、いま紫日記の説によるに、長保三年四月廿五日宣孝卒す、後三四年紫式部やもめすみにて、寛弘二三年のころ、みやづかへに出たり、そのやもすみの内の著作なれば、長保の末、寛弘の初に書るなるべし、かの日記の寛弘五年霜月の文にも、はや源氏物語宮中に流布のことみえたり、同六年正月の文に、一条院源氏物語御覧のこと出たり、実に何れの年撰せしと定かたけれど、今昔物語にも式部みやづかへよりまへに、物語つくりたるみえたれば、長保の末、寛弘のはじめに書けること決定なるべし、一条院叡覧ありし寛弘六年己酉より、天明四年甲辰まで七百七十六年を経たり、その物語にものせたるをみれば、彼岸会の名の吾邦に行るヽこと久し、これを思へ、
『三余随筆』明治27年版、カナをかなにするなど見易く改める
本節は『彼岸弁疑』という文献を参照している。同書は、以前から江戸時代の正徳6年(1716)版の明治期後刷本(上下巻)を所持していたのだが、ようやく蔵書から探り出したので、それも参照しておきたい。そこで、上記では『彼岸弁疑』を参照すべきだというが、同書には『源氏物語』への言及が無い。
『彼岸弁疑』では日本での彼岸会の始まりを、聖徳太子などの事例に求めているようなので、それであれば『源氏物語』よりも先行するが、『三余随筆』でいいたいのは「彼岸(ひがん)」という名称の問題なのだろう。そこは、著者の見解である。今年はNHK大河ドラマで紫式部を主人公とした『光る君へ』が放映されているので、ちょうど良いかと思い、上記を採り上げた。
上記一節では『源氏物語』の成立年代について考察しており、その際に『紫式部日記』を参照しているというが、実際には同時代に知られていた紫式部の人生や伝記を踏まえている。まず、「長保三年四月廿五日宣孝卒す」とは、紫式部の夫であった藤原宣孝が同日に死去したことを指している。そして、その後、寛弘2~3年(1005~6)に宮仕えしたことを指している。
ただ、慧琳は『源氏物語』の成立を、式部が夫を亡くし、宮仕えする頃までの成立だと考えている。最近の研究では、書き始めは夫を亡くした後で、悲しみを忘れるためだとされ、その後、宮仕えしてからも書き続けたものだとされる。なお、『源氏物語』についての初出は、『紫式部日記』の寛弘5年の内容に出る「物語」のことを指すとされ、未だに間接証拠的なところから成立年代などが検討されているくらいであるから、この辺は『日記』をどう読むかにも依るのだろう。
また、「かの日記の寛弘五年霜月の文にも、はや源氏物語宮中に流布のことみえたり」は、『日記』第35節で「御冊子作り」をしていた様子を指している。更に「同六年正月の文に、一条院源氏物語御覧のこと出たり」は、『日記』第59節で一条天皇が『源氏物語』の作者について、漢文の素養があると評した一件を指す。「実に何れの年撰せしと定かたけれど、今昔物語にも式部みやづかへよりまへに、物語つくりたるみえたれば」の一件は何だろう?『今昔物語集』巻24「藤原為時作詩任越前守語 第三十」のことを指すのだろうか?この藤原為時は、式部の父親だとされるし、同節中に「式部丞」の話も出てくるので、このことか?
さて、『源氏物語』に於ける「彼岸」の語だが、確かに「乙女」「行幸」両巻に見られるので、それは慧琳のいう通りである。しかし、慧琳という人、よほどしっかりと『源氏物語』を読んでいたのか?それとも、先行する指摘があるのだろうか?今回はそこまで追う余裕が無いが、江戸時代の僧侶の教養の一端を知るということで、記事にしてみた。明日以降は、『彼岸弁疑』を読んでみたい。
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