つらつら日暮らし

日蓮聖人と盂蘭盆会について

日蓮聖人(1222~1282)には、『盂蘭盆御書』(1280年[弘安3]7月13日、治部殿うばごぜんへの返事)と呼ばれる手紙が真蹟として残っているそうなので、盂蘭盆会についての考えを知りやすいかと思われる。例えば、盂蘭盆会については、以下のようにまとめておられる。

盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子の中に目連尊者と申して、舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならb,大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉占師子と申し、母をば青提女と申す。其の母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候ひしを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。
    『盂蘭盆御書』


以上の通りである。内容から、『盂蘭盆経』に基づいて、この教えを示していることは明らかである。それでは、具体的にはどのような方法が採られたのだろうか?それも、この御書から知られる。

仏け説て云く 汝が母はつみふかし。汝一人が力及ぶべからず。又多人なりとも天神・地祇・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず。七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味をんじき(飲食)とゝのへて、母のく(苦)はすくうべしと云云。目連、仏の仰せのごとく行ひしかば、其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給ひきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。其れによて滅後末代の人々は七月十五日に此の法を行ひ候なり。此れは常のごとし。
    同上


これもまた、『盂蘭盆経』からの指摘であることは、文中からも知られるであろう。いわゆる7月15日の自恣の日に、十方の聖僧(衆僧)に対して飲食を供養することで、母の苦しみが無くなると指摘されているのである。ところで、上記一節には「自恣」の語が見えないが、これは、在家信者相手に、難しすぎるとでも思われたのだろうか?

ちょっと調べてみたが、どうも、日蓮聖人は「自恣」という用語を、1箇所にしか用いていないようである。

自殿岡米送給候。今年七月盂蘭盆供の僧膳にして候。自恣の僧、霊山之聴衆、仏陀、神明も納受随喜し給らん。尽せぬ志、連連の御訪、言を以て尽しがたし。何となくとも殿の事は後生菩提疑なし。
    『四条金吾殿御返事』「第廿八書」(1280年[弘安3]10月)


この四条金吾という人は、四条頼基という人のことで、日蓮聖人の有力な信者の1人であり、法名は「日頼」であった。官職が左衛門尉だったことから、同職の唐名である金吾の名で呼ばれていたらしい。それで、上記一節は、7月の盂蘭盆供養を四条金吾が行ったことについて、まず日蓮聖人が感謝の意を示しつつ、後世の菩提を得ることが確実だと説いている。

この四条金吾という人は、とにかく日蓮聖人への信仰が熱心だった人であるが、盂蘭盆供養まで行っていたことが知られるわけである。それを思えば、先に挙げた『盂蘭盆御書』も盂蘭盆供養への礼も含む内容であったから、日蓮聖人は少なくとも、信徒達には、盂蘭盆供養を説いていたことは明らか、或いは世間で行われていた盂蘭盆供養について受容していたのだといえよう。

ところで、四条金吾の盂蘭盆供養に関する手紙は、もう一通存在していたようである。

雪のごとく白く候白米一斗。古酒のごとく候油一筒。御布施一貫文。態使者を以て盆料送給候。殊に御文の趣、難有あはれに覚候。抑盂蘭盆と申は、源目連尊者の母青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生、餓鬼道にをち給て候を、目連救ひしより事起りて候。雖然仏にはなさず、其故は我身いまだ法華経の行者ならざる故に、母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱て、多摩羅跋栴檀香仏となり給ふ、此時母も仏になり給ふ、
    『四条金吾殿御書』「第二書」(1271年[文永8]7月)


これを読むと、盂蘭盆供養について感謝しつつも、真実の盂蘭盆会については、「南無妙法蓮華経」の唱題があってこそだといわんばかりの内容である。また、上記一節に続く文章は、「施食」のことになっているのだが、それも以下のように書いてある。

又施餓鬼の事仰候。法華経第三に云「如従飢国来忽遇大王膳」云云。此文は中根の四大声聞、醍醐の珍膳をおとにもきかざりしかば、今経に来て始て醍醐の味をなめて、昔しうへたる心を忽にやめし事を説給文也。若爾ら者餓鬼供養の時は此文を誦して南無妙法蓮華経と唱てとぶらひ給べく候。
    同上


こちらでも、供養の時には『妙法蓮華経』「授記品第六」の「如従飢国来忽遇大王膳」等や、「南無妙法蓮華経」と唱えることによって、真実の供養がされることを示した。これも、唱題重視というべき内容である。施食供養点を日蓮聖人一流の実践信仰体系へと通じさせたものだといえよう。然るに、供養は供養として受けつつも、それに増して唱題の良さを示すということは、供物の位置付けなどがどうなるのか、関心はあるが、ここで論じるほどの知見があるわけではない。

ところで、先に挙げた『盂蘭盆御書』及び、四条金吾への「第廿八書」を改めて見てみると、以下のように示されていた。

しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。此の時こそ父母も仏になり給へ。
    『盂蘭盆御書』


こちらは、先ほどの四条金吾への手紙「第二書」と軌を一にする内容なので、日蓮聖人に盂蘭盆供養に増して、『法華経』信仰に基づく唱題が重視されることは理解出来る。更に、この御書では、目連尊者の持戒の功徳を否定しつつ、法華信仰を説くことにも注目される。持戒に対する日蓮宗の態度を定めた著作としても注目されるところではある。

また、「第廿八書」は、盂蘭盆供養と唱題との関係性が強くは示されないので、これ以上の知見を深めることが出来ない。

以上の通り、日蓮聖人の盂蘭盆会については、一部信徒の熱心な盂蘭盆供養を納受しつつも、そこから更に「唱題」へと導く教えを展開されていたと結論付けることが出来よう。この辺、盂蘭盆会についての指摘が無いと言って良い親鸞聖人などとは異なっているわけである。

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