静乱不二
声聞、喧を厭うて静を求む、猶お麺を棄て餅を求むるが如し。
餅、即ち従来是れ麺なり、造作、人に随って百変す。
煩悩、即ち是れ菩提なり、無心、即ち是れ境無し。
生死、涅槃と異ならず、貪瞋、焔の如く影の如し。
智者、無心にして仏を求む、愚人、邪に執し正に執す。
徒労にして空しく一生を過ごし、如来の妙頂を見ず。
婬慾に了達して性空なり、钁湯鑪炭自から冷しし。
『宝誌和尚十四科頌』、『景徳伝灯録』巻29
この「宝誌和尚」というのは、我々的には「ニアミスの人」という感じである。何かといえば、例えば、宗門の人に「梁の武帝」というと、大概は、菩提達磨尊者によって「無功徳」「廓然無聖」「不識」の言葉を言われた人というイメージが強いことだろう。結果、「帝、契わず」となって、達磨は北魏の少林寺へと渡った。
それで、宝誌和尚というのは誰かというと、『高僧伝』などによると武帝によって、その神異の能力(どこにでも現れたという)が恐れられ、一時は幽閉されるなどしたが意味が無く、その後は武帝の帰依を受けたという。つまり、実際の歴史上、中国南朝の梁にいたのは、達磨尊者では無くて宝誌和尚だったという話になるのである。
なお、多くの偈頌を作ったともされるが、今回紹介したのは、仮託であるとされる。
そこで、この偈頌の意味だけれども、「麺」が使われているので採り上げているわけで、それがどの辺に対応しているかというと、冒頭の数句である。
まず、大体の意味を採っておきたい。
この偈頌の意味とは、静寂なる心境と、乱れた心境とが不二であるということで、或る意味空観の徹底した境地であるといえる。
そこで、声聞は騒ぎをきらって静かな環境を求めるが、これは麺を棄てて餅だけを求める様子であるという。しかし、実は、その餅とは、従来麺であったといい(梁は中国南部だから、米が多いので米粉の麺か?)、ただその造作によって姿や様子が変わるのみであるという。いわば、餅のみを求め、麺を求めるのはナンセンスだといっているのである。端的にいえば、「声聞批判」こそが、この偈頌の主旨である。
続く文章は、煩悩即菩提と、仏の境地たる「無心」、生死即涅槃について展開している。道元禅師は、「無心」はインドにあって、中国禅では「即心」になったというが、宝誌和尚はまだ達磨が来たかどうかも怪しい時代の人だから、仮託であっても「無心」なのだろう。それで、煩悩の実態からすれば、貪りは炎のようで、怒りは修行に影を落とす。その上で、智者は、無心で仏を求めるが、愚人は邪正の分別に迷い、徒労の一生を空しく過ごし、如来のてっぺんを見ることが出来ないまま死んでいく。無心なる智者は、淫欲の真実に達して、その性が空であることを知り、その時、煮えたぎった湯や炭であっても冷たいのである。
麺がどっかに行ってしまったが、余り引っ張りすぎると伸びるからだろうか?ただ、我々は今「麺」というと、小麦粉を練って細長く切ったものというイメージがあると思うが、元々はすいとんのような感じで、ただ丸だったという話もあるという。確かに、「麦」と「面」を組み合わせた漢字なので、細長いイメージは無いなぁ・・・実は、この漢字の由来などを調べていたら、それ自体かなりややこしい話だと分かったので、この拙僧のイメージは実際の話とは関係が無い。
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