さて悉多はかく坐禅観想をして神通の修行工夫に苦行を致しつゝ、月お経年お経て殆んど身も枯木の如くに痩衰たが、老病死苦は解脱すること能はず、只修しゑたる者は神通ばかり。こゝに思ふやうは我かばかりの苦行をして已に六年に垂とするが、未だ生老病死を解脱するの道を得ず、さすれば真の道ではなかつたと見へる〈以下略〉
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』49頁、漢字などは現在通用のものに改める
結局、神通力ばかりは得ることになったが、生老病死の苦悩の解脱は出来なかった。そして、篤胤はどうも、釈尊がそれを気付くのに6年かかったということで、以下のような批判というか、中傷というか、悪口を述べている。
・あゝのろまなるかな沙婆悉多
・是がのろまでなくて何で有ませう。
要するに、何で時間がかかったのか?ということなのだが、仏教側から言わせれば、それくらい徹底して苦行をしたからこそ、始めてその無駄さ加減に気付いたといえる。そうしたら、篤胤はその辺にも咬みついている。
我もし痩身を其まゝにこの苦行を止たならば、彼諸々の婆羅門共がそしつて、それ見たか為とげもならぬことを為て、自がすきで餓さらぼつたが、それが因となるて命は死るであらふといはうから、まづ食を喰てちからをつけ、のちに此苦行は止め、生死解脱の道を得たりと披露するがよいと念ひ定たと云義でござる。これがまけおしみでなくて何で有ませう。
前掲同著・50頁
篤胤が「まけおしみ」といっているのは、「今、我、若し此の身を以て道を取らば、彼の諸もろの外道、当に自ら餓是れ涅槃の因と言うべし。我、当に食を受けて然る後に成道すべし」という一節である。これは、直接の典拠は不明なるも、言葉の選択などから『仏祖統紀』巻2からの取意であると思われる(或いは、篤胤は訓読したが、それを元に漢文に戻そうとしたので、原典と異なったかと思われる)。
それから、もう一つ、篤胤はとんでもないことを言っている。
さて右の如く念ひ定めて座より起て河に入り、垢だらけしらめだらけの骸を洗ひ落し、偖河より上がらふとする所に、身体疲痩不能出とありて上りゑず、あつぷあつぷしてあぶなく土左衛門にならふとしているゆへ、人が樹の枝につらまへて攀出してやつたでござる。
前掲同著・51頁
要するに、先に挙げた通り、これ以上苦行をする意味が無いと判断して、起ち上がり、河に入って垢などを洗い落とそうとしたのだが、それまでの疲労などが影響し、河から上がることが出来なかった、というのである。その様子を「あつぷあつぷして」とあるが、これは典型的な「オノマトペ」であり、なるほど、江戸時代後期には既にあったものかと理解した。
その上で、この、河から上がれずに溺れそうになった、という話は、仏典などの記録にあるものなのだろうか?調べたところ、『出定笑語』で挙げている本文とは少し表現が違っていたが、『釈迦譜』に、「尼連禅河に至りて水に入り洗浴す。洗浴、既に畢るも、身体羸痩して自ら出づること能わず。天神、来下して為に樹枝を捺し、池より攀出することを得る」とある。篤胤は、少しでも現実味のある話にしたかったのか、「人が」としているが、『釈迦譜』では天神が枝をやって助けたという。
この件について、以下のような見解を発している。
たゞし右の如く川であぷかぷしている所を人が憐んであげてやつたのを、天神が攀出したのじやと言、又ひもじがつているを不便に思ひ、牧牛女が乳糜をくれたのを、浄居天といふ天が此女に勧てくれさしたのじやといつて、是ばかりでなく何もかも実事をば諸天がかうしたの、浄居天がそうしたのと奇妙不測に託して重くるしく記し有が、みな跡からいひそへた事で取に足らぬ偽りでござる。
前掲同著・52頁
この辺からも、天部などの存在が関与した伝記を、敢えて人の関わりのみにしようとした意図を見ることが出来る。こういう国学者の見解などもあってか、明治時代に入ってから合理主義との関わりもあって、釈尊伝に限らず、祖師伝などからも奇瑞・奇譚が忌避される傾向にあったといえる。
ただし、中世以前の人々の観念には、奇瑞・奇譚は付きものであったはずで、それを否定して描くことは、かえって、その描かれようとした事象そのものから遠ざかる印象がある。よって、このような篤胤が持つ批判的観念は、次回以降も慎重に判じていく必要があると思う。
さて、篤胤の『出定笑語』は本編全4巻、附録2巻なのだが、その本編第1巻は今回までとなる。次回からは第2巻に入っていくが、巻ごとにテーマなどが変わるわけではないので、記事自体はこのまま進む。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し