十月一日 開炉の前夜、僧堂・諸堂、開炉す。一衆、叉手を袖内にし、頭帽を許すべし。
『瑩山清規』「年中行事」項
このようにあって、この日は開炉であることが分かる。なお、叉手を袖の内にするというのは、夏の時期はむき出しになっている手を、衣の袖の中に隠して良いことを意味し、頭帽とは防寒用の帽子のことで、これも被って良くなるのがこの日であった。つまり、衣替えということである。
然るに、この日は同時に、上堂を行い、開炉の意義を探るのが通例であった。道元禅師はこのような教えを残されている。
開炉の上堂。
払子を以て打一円相して云く、這箇は是れ永平の洪炉、若し也た打一遭すれば眉鬚堕落し、若し也た打破了すれば滴水滴凍す。
正当恁麼の時、如何。
丙丁童子競頭し来りて、笑殺す、丹霞の向火を貪るを。
『永平広録』巻6-462上堂
これは、建長3年(1252)の開炉の上堂であると推定されている。意味としては、道元禅師は上堂するに当たって、まず払子でもって一円相を描かれた。そして、これを永平(道元禅師)の洪炉(大きな炉)であるとした。問題はこの「洪」であり、これは大小の相対を絶しているとしなければならない。つまり、この円相は欠けることなき仏法そのものである。
よって、既に仏法が開示し終わっているといえるのだから、更に一打しようとすれば、還って誤りとなるとし、また、破れば「滴水滴凍」するといっている。これは、元々中国禅で多用され、道元禅師の引用例からすれば、中国曹洞宗の宏智正覚禅師などが用いた語句がイメージされているのかもしれないが、意味としては、しずくとなった水が、落ちるそばから凍っていくということであり、それを我々自身の修行に転じて理解しようとすると、刹那の一瞬であっても、とらわれないように行ずるべきだということになる。
そして、道元禅師は、まさにその時はどのようなことになるだろうかと弟子達に尋ねられ、更に自ら言葉を次がれた。その内容は、(洪炉の中には)火の神である丙丁童子が次から次にやって来て、丹霞天然が仏像を焼いてまで火に当たろうとした様子を笑うだろう、と述べた。
なかなか意味は採りづらいが、強いて申し上げれば、火を貪る意義についてよくよく考えろ、ということになるだろうか。ここでいう洪炉の中の火とは仏法の働きそのものである。よって、仏法の働くさまに気づけということになろう。
現在の日本は、一部地域を除いてまだストーブなどは要しないであろう。だが、確実に秋は近付いてきている。その時、ただ暖を採ることだけではなく、我々はそこにある暖かさへの有り難みを忘れず参究しなければならないといえる。
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