つらつら日暮らし

聖武天皇の受菩薩戒の記事

とりあえず、聖武天皇の受戒については『扶桑略記』(平安時代の成立。著者は比叡山の僧・皇円ともされるが不明)にあることが知られていると思うが、今日はその記事を読んでおきたい。

(天平21年1月)同月十四日、平城中島宮に於いて、大僧正行基を請して、其の戒師と為し、太上天皇〈聖武〉菩薩戒を受け、勝満と名づく。中宮〈宮子〉受戒し、徳太と名づく。皇后〈光明子〉受戒し、万福と名づく。即日、大僧正を改め、名づけて大菩薩という。
    『国史大系』第6巻・565頁、訓読は拙僧


分かりやすくいうと、聖武天皇(「太上天皇」とあるが、この時は天皇であったはずで、『扶桑略記』では、「私に云く、太上天皇は、誰人かな。元正天皇、廿年に崩す。若しくはこの□書き、違するか。是を勘すべし」とあって、書き間違いの可能性を指摘している)御一家が皆、行基大僧正を請して受戒し、名前を貰ったという話である。なお、一緒に受戒した中宮宮子とは、聖武天皇の母親である藤原宮子(文武天皇夫人)のことであり、光明子はいわゆる光明皇后(藤原氏出身初の「皇后」)である。

拙僧が気になるのは、この時に受けたのが、どのような「戒」であったのか?なのだが、『梵網経』系か?『菩薩持地経』系か?これだけではよく分からない。先行研究(東野治之氏『鑑真』岩波新書、参照)を見ると、「中島宮」というのは、正倉院の或る古文書に、当時「中島院」という建物が平城京内にあったことが知られているので、そのことだとされている。

なお、この聖武天皇受戒の話だが、他の文献には出てこないため、真偽を疑う声もあるというが、その「中島宮」の件もよく知られていなかったことであり、転ずればそれが分からなければ書かれなかった記事であるともされるので、まず正しかったであろうという。

それから、行基大僧正は、この件で行基大菩薩と称されるようになったというが、この翌月に遷化している。

ところで、聖武天皇は、同年後半から「沙弥勝満」を名乗り、自らを出家者に位置付けたとされる。これも、やはり行基大僧正からの受戒がきっかけだと見る向きもある。実際に、『持地経』系の場合には、四重禁(ただし、菩薩の四重禁であり、「不自讃毀他戒」「不慳法財戒」「不瞋恚戒」「不謗三宝戒」が該当)を受け、同時に優婆塞・優婆夷なら五戒、沙弥・沙弥尼なら沙弥十戒、比丘なら二五〇戒を併せて受けることで、それぞれ菩薩としての立場を得たというから、この辺は既に「沙弥十戒」を受けていたのかも知れない。

『梵網経』の場合だと、そのような他の戒律との兼授が不要であるような気もしており、また、「沙弥」という具体的な立場についても、どこまで考慮されたかが分からない。よって、菩薩戒とはいえ、いわゆる三聚浄戒・四重禁と沙弥戒くらいを受けたという状況なのかな?と勝手に推測した次第である。

この辺、本当に難しい。現代の我々から見ても難しいが、当時も難しかったんだろうか。

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