つらつら日暮らし

宵越しの金は持たない禅僧

ちょっと面白い問答があったので、見ておきたい。

問、師、誰家の曲か唱えるや。宗風、阿誰に嗣ぐや。
師云わく、銭有れば銭を使い、銭無くして貧を守る。
    『建中靖国続灯録』巻8「東京十方浄因禅院浄照禅師」


これは、浄照禅師という人の対機(相手に合わせた指導のこと)である。なお、浄照禅師とは、かの潙山霊祐禅師(771~835)の弟子である。そして、上記の問答は何が問われているかというと、或る僧侶が浄照禅師に対して、誰から法を嗣いで、どのような宗風を鼓吹するのか?と聞いているのである。

当然、潙山禅師の法嗣だから、その辺を答えるのかと思うと、決してそんな分かりやすい答えは言わない。むしろ、「銭が有れば銭を使い、銭が無くなって貧を守る」と答えている。或る種の「貧道」という言葉を地で行くような内容だが、そういう意味で良いのだろうか?

実は、以下のような問答もある。

問、如何なるか是れ仏。
師云わく、銭有れば銭を使う。
    『石霜楚円禅師語録』


これは、中国臨済宗の石霜楚円禅師(986~1039)の問答である。先の浄照禅師よりは少し後の時代の人だが、禅語として使われていることを確認したい。ここでは、「仏とは何か?」という問いに「銭有れば銭を使う」としている。つまり、仏とは自らの悟りを使い尽くして、衆生を導いているという意味である。

そこから考えると、浄照禅師の教えも理解出来るであろう。つまり、仏法を誰から相承したのかが問題では無く、何かでも残るような悟りがあれば、それらは全て弟子達を導くために使ってしまうので、自分自身には何も残っていないという意味である。そうなると、誰から法を嗣いだのか、或いはどのような宗風を鼓吹するかは、どうでも良いことである。

しかし、悟りがあれば全て使い尽くす様子は、或る意味「宵越しの金は持たない」様子であるが、元々仏教の僧侶は、そういうところがある。つまり、私有財産の蓄財などは、本来許されていないところである。当然、悟りを自分で大事に持っておくことも許されてはいない。それは、不慳法財戒に違反するともいえる。

なお、ケチは仏教にとって悪徳である。一方で、布施は仏教にとって善行である。宵越しの金も持たないというと、どこか無軌道な生活などを想像されがちだが、根っこのところで、仏教の基本に忠実だったりするのである。

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