彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。
「第二章 懺悔滅罪」
今日問題にしたいのは、この「軽受」の読み方である。我々が習った読み方だとこれは「きょうじゅ」と読むべきだということであった。ところが、近年、同語を「けいじゅ」と読む人が増えてきているように思う。これはどういうことなのだろうか?そこで、何が正しい読み方なのかを、調べてみることにした。
まず、宗門の公式見解、要するに、出版部で出している経本の読み方をチェックしてみようと思う。まずは、『曹洞宗日課勤行聖典』や、檀信徒に配布する場合が多い『洋本修証義』では、みな「きょうじゅ」とルビが振られている。流石にこのルビを「けいじゅ」とは読めないから、少なくとも「きょうじゅ」と読んでいる拙僧、宗門の見解には反していないことになる。
では、何故、宗門の見解とは違った「けいじゅ」と読まれているのだろうか?例えば、漢字の読み方、いわゆる漢音・呉音の問題だろうか?仏教語を読む場合には「呉音」を用い、一般的な漢字は「漢音」で読むという慣習(古来、国でもルールを定めたが、実際には混在しているので、敢えて「慣習」と表現)であるが、どこの書店でも手に入る一般的な漢和辞典で調べてみるとこうなる。
呉音:キョウズ(キャウズ)
漢音:ケイシュウ
意外な結論になった。実は「受」を「ジュ」と読むのは慣例読みでしか無く、厳密には「ズ(呉音)」「シュウ(漢音)」であった。ただ、「キョウ」と「ケイ」とでは明確に「キョウ」の方が仏教語読みに相応しいことも分かった。ここからも「けいじゅ」は相応しくないことが分かる。
それから、『修証義』については、もう一つ調べておかねばならない重要な要素がある。それは、『修証義』はその編集当初から「総ルビ」が検討されていたことである。『修証義』は元々読誦経典では無く、後にそういう位置付けになったという見解があるが、実際に校正を担当された滝谷琢宗禅師のご見解を拝すると、読誦経典としても作られている。同時に、本書の本文を題材に師家や布教師が講話などをすることもまた、当初から想定されていた。その意味では、部分的にも読まれるものであった。よって、そのためにも「総ルビ」で無ければ、読み手同士で違うということも起こるわけで、それを避けたのである。
そして、この「総ルビ」については、滝谷禅師が、自らの草稿に繰り返し手を入れていることが知られていて、岡田宜法先生『復刻修訂 修証義編纂史』(宗務庁刊)でも詳しく述べるところである。それを見ていると、なるほど、この辺に今回の原因があったのか、と理解出来る。この一句について、滝谷禅師の註釈が以下の通りに入っている。
軽けい、未完本、呉音はきやうに相違ナシ四十八軽戒ノ軽ナリ然レドモ語便ハ漢音ガ宜シキニ付予ハけいトセリ
岡田先生前掲同著、192頁
ここで、滝谷禅師の「未完本(清書本では無い)」に以上のような註記があると判明した。滝谷禅師は呉音の「きやう」と読むのが正しいとしつつも、大変だから、漢音の「けい」で良いと判断したことになる。ただ、現在は呉音を「キョウ」と読むので、「キャウ」とは読まない。よって、おそらくは「キョウ」と読むことによって、滝谷禅師の危惧される「語便」問題を突破して、このように採用したという話になっていると思われる。明治20年代前半に刊行された、『修証義』関連書籍について、刊行順に列べてみたい。
①『洞上在家修証義』明治21年 ルビ無し
②『曹洞教会修証義』明治23年 ルビ無し
③大内青巒居士『修証義聞解』明治24年 けうじゆ
④滝谷琢宗禅師『修証義筌蹄』明治26年 ルビ無し
ここで③にルビが入っているが、「けうじゅ」は「きょうじゅ」と読むので、現行読みと同じになっており、この辺が後々まで影響しているのだろう。
そして、結論ではあるが、呉音を基本とするという状況に於いて、一般的な漢和辞典で「キョウ」が指摘されている以上、現行の「きょうじゅ」は問題が無いといえる。その意味では「けいじゅ」読みは止めるべきであろう。しかも、なるほど滝谷禅師の重要な指摘はあるが、しかし、滝谷禅師のご指摘も「語便」を前提に「けいじゅ」と「きゃうじゅ」とを比べて前者を選択しておられる。語便はつまりは「方便」である。しかも、「きょうじゅ」で突破できるのだから、「きょうじゅ」で良いのである。
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