冬安居辯
或いは問う、結冬安居法、本より小乗律の明かす所に非ず。且つ、禅林諸清規の載せる所に非ず。而今、扶桑洞下の叢林、専ら之を講行するは、拠有りや。
答えて云く、豈に拠無からんや。吾が祖、昔入宋帰朝し、初めて洛南興聖寺を開き、嘉禎二年丙申に至り、始めて冬安居を行ず。十月十五日開堂祝聖し、乃ち孤雲奘公を請して、首座と為して、除夜に秉払せしむ。是れ、吾が門五百年来、冬安居を行ずるの由来なる所以なり。
『面山広録』巻24
まずは以上としておきたい。以上の通り、当辯は或る人の質問へ、面山禅師が答える形で構成されている。質問は、結冬の安居法については、元々律蔵が明らかにしたところでも無く、禅宗の諸清規にも載っていない。しかし、今、日本の曹洞宗の叢林でこれを行じているのは、どのような典拠があるためか?というものである。
なお、「冬安居」という語句で調べてみると、確かに漢訳された律蔵には載っておらず、中国の律蔵への註釈にも載っていない。わずかに、中国宋代の臨済宗・中峰明本禅師の語録に、「冬安居示徒」が入っているが、安居法の詳細は確認されないので、実態は分からない。
ということで、質問者の言う通りだとは出来よう。
その上で、面山禅師の答えとしては、「どうして典拠が無いことがあろうか」とし、「吾が祖」とある通りで道元禅師の事績を紹介しながら、冬安居があったとしている。ただし、その典拠は、今日と興聖寺を開いた際の一事で、嘉禎2年(1236)に冬安居が行われたとしており、特に10月15日の興聖寺の開堂祝聖と、懐奘禅師の首座拝請と秉払を挙げている。
だが、その判断は正しいのだろうか?以前から、興聖寺で冬安居が行われた、という見解を仰る方はおられたが、この面山禅師の見解が典拠だったのかもしれない。まず、10月15日の開堂祝聖については、以下の通り実際の実施は不明というべきである。
・師、嘉禎二年丙申十月十五日に於いて、始めて当山に就いて、衆を集めて説法す。 祖山本『永平広録』巻1冒頭
・師、嘉禎二年丙申十月十五日に於いて、始めて当山に就いて、開堂拈香、祝聖し罷つて…… 卍山本『永平広録』巻1冒頭(『永平略録』冒頭もほぼ同じ)
以上の通りで、江戸時代一般的に流布していた『永平略録』及び、卍山本『永平広録』では確かに、「開堂」「祝聖」しているのだが、面山禅師ご自身も読まれた祖山本『永平広録』では、ただの「集衆説法」なのである。よって、この時を安居の初めとは判断出来ないことになる。
また、懐奘禅師の首座拝請は以下の通りである。
嘉禎二年臘月除夜、始めて懐弉を興聖寺の首座に請ず。即ち小参の次、秉払を請ふ。初めて首座に任ず。即ち興聖寺最初の首座なり。
長円寺本系統『正法眼蔵随聞記』巻6
これは、先に挙げた集衆説法の後で、同年年末の除夜に、懐奘禅師を首座に拝請したという流れが見える。ただし、これが冬安居に因むかどうかは分からない。何故ならば、道元禅師は安居の始まりと終わりに、それを示す説法をされているのだが、常に「結夏」「解夏」のみであって、冬安居を示す説法の記録は無いのである。
また、首座を安居に因んで拝請するという話も、日本の江戸時代には一般的だったようだが、中国宋代や、日本の鎌倉時代まで同じだったかどうかは分からない。参考までに、以下の一節が見られる。
或いは首座無ければ、但だ堂中の年臘高者を請して之れに代えるのみ。
『幻住庵清規』「四節」項
これは、「四節」の結夏に因む話なのだが、ここで、「首座」がいない場合の話をしている。つまり、結夏の諸儀礼時に首座がいなかった場合もあったということである。だいたい、興聖寺で嘉禎2年の10月15日が本当に「結冬安居」だったとしても、懐奘禅師の拝請は同年12月の年末だったわけで、結制時の首座に因む儀礼は行われていない。
よって、興聖寺の一件は、「冬安居」を示すものではないと理解されるべきである。明日以降も、面山禅師の御見解について検討していきたい。
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