つらつら日暮らし

「いい歯の日」と『弁道法』

今日、11月8日は語呂合わせから「いい歯の日」とされる。

さて、今回のタイトル「「いい歯の日」と『弁道法』」だが、おそらく日本の僧侶で、「歯磨き」について、詳細な説示を行ったのは、曹洞宗の高祖であり大本山永平寺を開いた道元禅師(1200~53)が最初であろうと思われる。

主著とされる『正法眼蔵』には、「洗面」巻があり、「洗面」と歯磨きについて書かれたものである。同巻では歯磨き法について、以下のような記述が見られる。

よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすすぐべし。はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろえ、きよくあらふべし。漱口たびたびすれば、すすぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。
    『正法眼蔵』「洗面」巻


当時の誰に対しても分かるように、「和語」を連ねて、歯磨き法を書いておられる。この最初の「よくかみて」というのは、当時は現在のような歯ブラシがないため、楊枝(楊の枝)を使って歯磨きをしていた。当然に、そのままでは使えないため、まず嚼んで柔らかくし、先の方をブラシ状にしてから使っている。

そして、歯の表も裏も、磨くように、研ぐように洗わなければならないという。磨いたら口を度々ゆすいで、また歯茎も洗うように指示している。さらに、知り合いの歯科医に聞いたところ、この「はのあひだ、よくかきそろえ、きよくあらふべし」という「歯間」への注意は、賞賛していた。今でこそ、「歯間ブラシ」などというデンタルケア商品もあるが、当時の状況で、楊枝を使ってここまで行ったというのは、極めて行き届いた説示であると思う。

ところで、楊枝を使う場合、ただいきなり使うのではなく、歯磨きという「行為」を「仏行」に昇華させるために、以下のような呪文を唱えている。

楊枝を右手にとりて、咒願すべし。
 華厳経浄行品云、手執楊枝、当願衆生、心得正法、自然清浄。
この文を誦しをはりて、さらに揚枝をかまんとするに、すなはち誦すべし、
 晨嚼楊枝、当願衆生、得調伏牙、噬諸煩悩。
    同上


大乗仏典である『華厳経』の中には、我々の行いを「浄行」として昇華する「偈文」が多く記載された「浄行品」という一章がある。道元禅師が引用された偈文の内容からは、「当願衆生」という字句が必ず入るが、「まさに願うべし衆生・・・」と訓じ、我々の行いが仏行として成就することを発願するのである。

意味するところは、最初の偈文が「楊枝を執ったならば、まさに願うべきである、衆生が心に正しい教えを得て、自然と清浄になることを」(意訳)となる。後者の偈文が「朝に楊枝を嚼むならば、まさに願うべきである、衆生がその牙(歯)を調えて、諸々の煩悩をかみ砕くことを」(意訳)となる。楊枝で歯を磨けば綺麗になるという文脈を上手く使って、発願に繋げている様子が理解出来よう。

ところで、道元禅師はこの「洗面」巻について、75巻本系統の奥書から、興聖寺・吉峰寺・永平寺と、都合3回、大衆に示されたことが知られるのだが、他に『弁道法』でも「歯磨き」について説示されている。以下の通りである。

 後夜に首座寮前の板の鳴るを聞かば〈此の板、或いは三更の四点、五点、或いは四更の一点、二点、三点、各おの住持人の指揮に随って鳴らす〉、大衆、軽身にして起きよ。卒暴なるべからず。〈中略〉
 其の時節を伺って、須く後架に赴いて洗面すべし〈時節を伺うとは、大衆の洗面、稍や其の隙を得るなり〉。手巾を携えて左臂に掛く。両端は内に在り、或いは外にあり。〈中略〉既に水架に到らば、且らく処有るを待つ。衆家に搪揬することを得ざれ。既に処有るを得ば、即処に洗面せよ。
 洗面の法は、手巾を用いて頸に掛け、両端を前に垂れ、次に両手をもて各おの一端を把って、左右の腋下より背後に至らしめ、互相にして両端を交え、又た両の腋下より面前に至らしめ、胸に当てて決定せよ。一に絆を繋くるが如くし、全襟と両袖とをして、両臂以上、両肩以下に押し褰げしむ。
 次に手に楊枝を執り、合掌して曰く、手執楊枝、当願衆生、心得正法、自然清浄(手に楊枝を執らば、当に願うべし衆生、心に正法を得て、自然に清浄ならんことを)。即ち楊枝を嚼み、誦して曰く、晨嚼楊枝、当願衆生、得調伏牙、噬諸煩悩(晨に楊枝を嚼めば、当に願うべし衆生、牙を調伏することを得て、諸の煩悩を噬まんことを)。
 仏の言く、楊枝の頭を嚼むこと、三分に過ぐることを得ざれと。凡そ歯を踈え、舌を刮くこと、当に須く如法なるべし。舌を刮くこと、三度に過ぐることを得ざれ。舌上より血出でなば、当に止むべし。古に云く、浄口とは楊枝を嚼み、口を漱ぎ、舌を刮くと。
 若し人、相い向わば、手を以て自らの口を掩うて、人をして見せ、嫌心を生ぜしむること莫れ。洟唾、須らく屏処を知うべし。大宋諸寺の後架には嚼楊枝の処無し。今、大仏寺の後架には之を構う。
    『弁道法』


文中と前後を、かなり省略はしたが、要するに睡眠から起床し、後夜坐禅(夜の終わりの時間に行う坐禅)を行う際に、以上の通り洗面・歯磨きを行っていた様子が分かる。『弁道法』は、1日24時間の生活を、その順番の通りに示したもので、いわば、一行として強調した「洗面」巻に比べると、あくまでも僧堂行時を進める中に組み込まれるようにして示されているのが『弁道法』である。よって、こちらの方が、修行の実態に近いといえる。

それから、「洗面」巻と比較すると、「華厳経浄行品」などの指摘が無く、ただ偈文だけが書かれ、必要な事柄のみが示されていることも分かる。更には、他の修行者がいるため、周囲の者への配慮を伴った行いをするように示されているのも、特徴ではある。以上のようなことを学びつつ、現代の歯ブラシを使って、しっかりと歯磨きをしておきたい。

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