【前編】の続きになるが、法然上人の念仏は移動として見出される場所であって、それは立場ではない。法然上人が選択として見出した阿弥陀念仏や、善導和尚のような先達はどこまでも立場の根拠としてではない。何故ならば、法然上人の言説はそれ自体積極的な意味として取り出すことが出来ないからである。そのような「意味」として取り出す場合には、本来差異化の運動としてあったズレが消されて、法然上人や念仏が「真」であり、他の思想家は「偽」であるということになる。このような「専修念仏」の宗教化は、言説の「場所」を「立場」に変えることであり、法然上人の著作のような「差異化のテクスチャー」としてあるものを、何らかの理念を現す「作品」としてみることに他ならない。
さて、諸行から一行を選ぶという過程を経ないで念仏を見る場合、それは差異化の機能を果たしていないと見ることが可能である。確かに、法然上人は念仏を選んでいくがそれは差異化の結果として、非常に戦略的に立ち上げられていくのに対し、始めから念仏のみを見出した者は、そのような場所が立場として理解され、当初から「真偽」の過程と伴って理解されることになる。問題は、真が真となることが救済という事実において事後的に決定されることなのである。
そして、もちろんこれは他の宗教などの一切に当てはまることになる。本来差異化としてある機構は常に「場所」としてのみ有り得るのであり、その場所を形成する差異化の運動としてのみ救済される。であれば、「立場」に変換する一切の要素を停止し、どこまでも宗教的活動としてのみ行為されていくべきである。そして、そのような「立ち上げ」は既に多くの世界宗教者によって実現されているのである。
以下、【ver10.5】に続く。
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