維摩詰曰く、我が病形無く見るべからず、と。
又た問う、此の病、身合なるや、心合なるや。
曰く、身合に非ず、身相離れるが故に。
亦た心合に非ず、心の幻の如くなるが故に。
師云く、身相既に離るる、心も亦た幻の如し。誰か是れ疾を示す者なるや。誰か是れ疾を問う者なるや。還かに証明して得んや。若し証明し得れば、則ち諸人の身病・心病、倶に銷み、仏病・法病、斉しく遣れば、便ち能く、
三毒を回して三聚浄戒と為し、
六識を回して六神通と為し、
煩悩を回して菩提と為し、
無明を回して大智と為す。
『大慧録』巻7
これは、中国臨済宗の大慧宗杲禅師(1089~1163)の教えである。この教えは、元々『維摩経』巻中「文殊師利問疾品第五」からの引用である。文字通り、維摩居士と文殊菩薩との問答になるのだが、結局維摩の病とは、体からでも、心からでもないという話をしているのだが、そうなると、ここでいう病や、病を問うことの意味を証明せよ、と弟子達に求めている。
そうすれば、身心の病を抑え、また、仏と法へのとらわれとなる病を追い遣れば、三毒が三聚浄戒となり、六識が六神通となり、煩悩が菩提となり、無明が大智になるという。これは、本来相対する事象であるが、その相対性を破することが、大慧禅師が説く仏法の本質だといえよう。
ところで、実はこの後半部分の教えには、典拠がある。
若し復た人有りて、其の本源を断てば、即ち衆流、皆な息み、解脱を求むれば、能く、
三毒を転じて三聚浄戒と為し、
六賊を転じて六波羅蜜と為す。
自然に永く一切の諸苦を離るる。
『破相論』
これは、達磨大師に仮託された教えであるが、この一節を大慧禅師が参照されたのであろう。なお、先ほど、相対性を破するという話をしたが、大慧禅師は「二無く別無し、当に恁麼の時、始めて能く三毒を回して三聚浄戒と為す(以下略)」(『大慧録』巻25)とあって、一切の事象を「等」とするとき、「無二無別」となるのである。
つまり、ここでいう「三聚浄戒」とは、煩悩や迷いとは反対の位置にある事象なのだが、それを反対だとしてしまうと、仏法や智慧とはいえないのである。よって、事としての三聚浄戒がどう把握されていたかは、不明といえる。とはいえ、禅僧っぽいといえば禅僧っぽい。
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