つらつら日暮らし

道元禅師に見る「創発」概念について

『遺教経』を学ぶのが、この涅槃会の時期であるが、今回は「創発」概念について検討する。これは、近年のシステム論オートポイエーシスで次のようにいわれる事態である。

創発という豊かで曖昧な現象に向かって、自己組織化は進む。眼前の三次元空間内に突如巨大なリンゴが出現したら、ただちに何故そんなことが起きたのか、誰しも理由を問う。そして原因が見出せないと、偶然だったと言う。ところが、起こることには十分な理由がある。現に生じてしまうことの必然か偶然かではなく、そこに固有の機構が見出せるはずだというのが、自己組織化の確信である。
    河本英夫先生『オートポイエーシス2001』42頁


特に、仏教が因果の話題や縁起の機構を用いてしまうため、我々は事象の直接的因果についての直観が豊かに作動していくが、どうしてもそれだけでは説明できない場合が生じてくる。道元禅師の場合、それは修行の継続にしたがって、自らの身心が大きな作動的変化に直面する事態で発生した。いわゆる身心脱落という事象だが、しかし、この事象そのものが、直接的因果ではなく、因果とは別の位相で語られ出したとき、おそらく逆に因果という事象そのものへの思考が豊かさを増しているのである。直接的因果ではなく、産出的因果への直観である。マッチで火を点けるとき、いつ点くのかは分からないが、よほどのことがない限り点く。しかし、我々はその点いた瞬間を見ることは出来ない。さらに、火が点けば、後はマッチを擦るという作業も要らない。そこではまた、別の機構によって火は自ら継続的に燃え続けるという「固有の機構」が働いている。そして、この機構こそ「産出的因果」と呼ばれる「創発」概念なのだが、これを「悟り」或いは「回心」と呼ばれる宗教的体験の現場に持ち込んだのが、道元禅師なのである。そこで、さらに「産出的因果」についての学びを進めていこう。

産出的因果は必然性のないプロセスであり、ひとたび火が点けば、たとえ摩擦を停止しても火は燃え続ける。この事態は因果関係で指標される以上のものを含んでいる。原因の停止があっても、結果は一方的に継続するからである。とすれば産出的因果は、因果関係のカテゴリーのひとつのタイプではなく、むしろプロセスの一局面なのである。ここではプロセスは別のサイクルへと入り、相転移に類似した事態が生じる。
    河本英夫先生『メタモルフォーゼ』84~85頁


ここの相転移と呼ばれる事態は、例えば摩擦運動によってマッチに火が点こうとしているとき、そこに摩擦によって熱の蓄積が進み、そこから燃焼に必要な酸素との結合が可能な状態になっていくとき、そこに瞬間的な事態として質的に異なる二つの事態が作動に含まれる「二重作動」となっている。しかし、そのプロセスから相転移が発生してしまう(この場合は燃焼)と、先に挙げた二重作動が共に燃焼の進行に巻き込まれる形で無効化されていくのである。

このときひとたび火がつけば、それまでの摩擦の継続という過程を度外視して火は燃え続ける以上、プロセスの中で相転移が生じるところでは、みずからの前史を断ち切ってしまう。いかなる前史をもとうとも、この前史はすべて無効となる。プロセスとはみずからの前史を無効としつづける事態のことである。プロセスで相転移が生じれば、そのつど生成過程を一からやりなおさなければならない。
    『メタモルフォーゼ』85頁


問題は、この「相転移」について、まさに「悟り」或いは「回心」と呼ばれる事態が相当することであり、逆にこれをプロセスの固有の歴史という進展状況を考察していない場合、以下のような道元禅師の言葉を理解することは不可能である。

このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちいる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。
    12巻本『正法眼蔵』「発菩提心」巻、傍線拙僧


「慮知心」というのは、まさに現在の我々が通常に用いている、分別的思考という心的機能であり、これが「菩提心」に至る前提として働くというのは、これは「修行しよう」と願う我々の決意をもたらすのが、「分別的思考=慮知心」だからである。このブログではこれまで「歴史的身体」という概念を用いながら、身体形成時に於いて固有の宗教的状況を「選択」していく過程を折り込んでいくが、実際に仏教を学ぼうという人は、その段階で既に「選択」を行ってしまっている。この段階に行われる、最初の選択こそが「慮知心」を用いることで為されていくのである。また、この慮知心に基づく修行こそ、先の「マッチの摩擦」に相当することは言うまでもない。参考までだが、仏教ではすでにこのような「マッチの摩擦」に相当する考えを導入している。

若し行者の心、数数懈廃すれば、譬えば火を鑽るに未だ熱からずして而も息むれば、火を得んと欲すと雖も、火得べきこと難きが如し。
    『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』


ここで、「火を得る」ために「火を鑽る(=木と木を擦って火をおこすこと)」という直接的な因果関係は認められるのだろうか?確かに、一般的にはやる気を出して修行を続けていれば、その結果として悟りが得られると思っているかもしれない。しかし、先に引用した「発菩提心」巻の傍線部分にあるように、道元禅師は修行の継続を促す「慮知心」が「菩提心」をもたらすとは考えていない。したがって、ここに我々はかえって、「菩提心」ということが先に挙げた「修行への決意=慮知心」と、「決意に基づく修行=身体」という二重作動的「前史」を断ち切る「相転移」の先のプロセスだと理解すべきなのである(この「相転移」に相当する概念は、「身心学道」巻で「感応道交」と説かれる)。

かくのごとくなるなかにおこなふひとつの妙術あり。いはく、この吾我はすつべきものにてもあれ、しばらくこれをかりて仏法を修行し、参禅学道するとき、この修行は吾我のためにはあらずとならふなり。
    『参禅学道法語


この「吾我」こそが、「慮知心」に相当していくのだが、道元禅師はこの吾我を「借りて」修行していくときに、吾我のためではないと習っていくべきとされる。いわば、ここにも先の「発菩提心」巻に相当する「二重作動から相転移へ」という多重的プロセスが見られる。この多重的プロセスが特に道元禅師の場合「身心」に関わるというとき、我々には既に、この一連の事態を表現する適語がある。それこそが「身心脱落」である。

いはゆる道は地によりてたふるるものは、かならず地によりておく。地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを挙拈して大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。
    『正法眼蔵』「恁麼」巻


ここからも、「二重作動から相転移へ」というプロセスに、「身心脱落」が関わっていることが見て取れるだろう。まさに、作動の継続がなければ、その後の相転移も起こることはないという状況を、前半の「倒れたものは地によって立つ」という場面にて描写し、しかし、そこのプロセスを採り上げて「うるわしき大悟」、「もぬくる身心」への道を示しているのだから、ここではこの両者の直接的関係の有無を知ることは出来ない。これまで述べたことからは、直接的関係は「ない」と見るべきである。

つまり、この一連の描写から得られたことは、以下のような修行のプロセスである。

慮知心に基づく決意⇒身体を使った修行=二重作動<感応道交・身心脱落<相転移=菩提心

このように、道元禅師の大悟には、極めて複雑な機構が含まれており、そしてたいがいはこの「菩提心」からの描写がなされているため、その前史である「身心脱落」までのプロセスは、記述上は放棄されてしまっているが、されどそれこそが先に河本先生が述べた「プロセスで相転移が生じれば、そのつど生成過程を一からやりなおさなければならない」という言葉に相当する記述だと理解すべきであるし、これを端的に曹洞宗の宗乗では「証上の修」(『弁道話』)と呼んでいるのである。また、この「証上の修」として記述された、「創発」概念が『正法眼蔵』に見える。

起時唯法起、この法起かつて起をのこすにあらず。このゆえに起は知覚にあらず、知見にあらず、これを不言我起といふ。
    「海印三昧」巻


これは、『維摩経』「問疾品」に示された一句である「起時唯法起」に関する提唱であるが、道元禅師は「起」という事態が、既に知覚や知見に関わらないで起きている「不言我起」であるとされている。そこで、問題はこの「我起」である。

我起を不言するに、別人は此法起と見聞覚知し思量分別するにはあらず。さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。起はかならず時節到来なり。時は起なるがゆえに、いかならんかこれ起なる、起也なるべし。すでにこれ時なる起なり、皮肉骨髄を独露せしめずといふことなし。起すなはち合成の起なるがゆえに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。声色と見聞するのみにあらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。不言は不道にはあらず、道得は言得にあらざるがゆえに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起にあらず。
    「海印三昧」巻


「我起」は不言であるが、人はこの法の起こるを見聞覚知して、さらに思量分別するわけではないというのは、この「起」が「相転移」に関わっているためであり、「相転移」という事態になんとかして相見することが出来ても、それ自体に「してやられる(落便宜)」ことになるであろう。それよりもむしろ、「起きる時」という「場所」の作成に注目するべきで、「起きる時」とは「相転移」の結果として「我起」というあらゆる面目が成立しているのであり、そこには一切の存在が「独露なる皮肉骨髄」として「現成」しているのである。現成とは、箇々の事物がそれぞれに独立なる姿を顕す「海印三昧」と言って良い。だからこそ、独立した現成に対しては、もはやどのような言葉も届かない。それは、先に挙げた「二重作動から相転移へ」という不可言説的プロセスを不可避的に孕みつつ、その都度に「起きる時」という「創発」があるためである。しかし無いわけではなく、また「道得」出来ないわけではない。道得は「道い得る」という意味であるが、道元禅師は「言得」という位相との差異を示している。言葉に於いては「差異化」という機能が常に働いているが、それはあくまでも(恣意的に定められた)事象に対してということになる。ただし、道元禅師の直観の純粋性は、この存在性に関わる「創発」であるため、事象に対しての記述に、予め二次的になる「言得」は排除しなくてはならない。そこで「言葉が届かない」という表現で届かせるしか無く「道得」と「言得」との機能的差異の「原初」になるが、この「原初性」も「創発」に関わる。

菩提心の創発、そしてその菩提心から捉えられた創発。ともに、それまでの「前史」からの切り離しについては、上記に示したとおりである。そもそも、修行が一過性のプロセスでしかないためであるが、その修行というプロセスがあるからこそ「相転移」にもつながる「二重作動」が継続されていくのである。そして、ここが曹洞宗の宗乗の独自性になっていくのだが、この「相転移」後に於いて、修行というプロセスを再構築した場合、実は「相転移」後の菩提心には、修行が組み込まれなくてはならないのである。何故ならば、「相転移」後であっても「創発」が起こり続けるからであり、先に挙げた「マッチの燃焼」に於ける「燃焼材」が修行にあたるからである。いわば、それまでにも、(慮知心に基づく)修行を継続して身心脱落(=大悟・叱咤時脱落)したが、その後に菩提心を発現させ、身心脱落を意味あるものにすることもまた、修行によってなされていくのである。これを「悟後の修行」とも、「悟来の儀」ともいい、悟後の「身心脱落」は「坐禅時脱落」と呼ばれる恒常的事態となる。結局、不可避的に修行が関わり続けていくシステムを構築したところに、道元禅師の宗乗があるのであり、それこそが修行否定の一切から自らを遠ざけるプロセスだったといって良い。プロセスの全体を通して見れば、ただの修行しか無く、「悟り体験」不要という「伝統宗学」的文脈になるが、実際にはその都度に意味の異なる「修行や悟りの濃淡」があると見るべきであろう。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事