ということで、体育とスポーツについて、以下の一節を見ておきたい。
吾人は競技を以て動物の競ひまでに引き下げたくない。人間の争ひである。あくまで人間の競技であつてよい。そこに修行、鍛錬、精進、教育の仕事があるのである。競技であれ、凡てのスポーツ、あらゆる体育運動が、修練のために、鍛錬のために、人間たらしめん為に、大地を踏みはづしてならぬ生きる道を求めんために、即ち教育のために存在する所以を知らなければ、すべての運動は分化に分化を重ね、人間本然の究極理想に遠ざかつて行くのである。かくして運動することは人生に透徹したる意味を有たない様になる。それは競技運動の没落であり、体育の堕落寧ろ崩壊であるといはねばならぬ。
島田正蔵『体育原論』(大同館書店、大正15年)93頁
時代も大正になってくると、いわゆる用語としての「スポーツ」が使われてくるようだ。それで、上の用例を見てみると、「競技」「スポーツ」「体育運動」という3種類で区分がされていて、わざわざ「スポーツ」を残したということは、「競技」「体育運動」とは若干でも異なった事象として理解されているに違いない。
然るに、他の文献を読んでみても思うことは、「スポーツ」については、その「スポーツマンシップ」が共有されていたようである。これを騎士道とし、一方で日本の武道については武士道の精神があるとして、その共有を図ったのであった。無論、それが正しいかどうかは分からない。
ところで、上記一節の文献を書いた島田正蔵氏だが、大正期の体育教育についての第一人者であったらしく、この人の説についての研究もあるようだ。
それで、拙僧的に上記一節を採り上げようと思ったのは、「競技であれ、凡てのスポーツ、あらゆる体育運動が、修練のために、鍛錬のために、人間たらしめん為に、大地を踏みはづしてならぬ生きる道を求めんために、即ち教育のために存在する所以」という指摘である。体育運動について、修練・鍛錬・人間たらしめるという大きな目的が指摘されている。
要は、身体的運動を通して、その人格を錬磨することが肝心なのである。
また云、得道の事は心をもて得るか、身を以得るか。
教家等にも身心一如と云て、身を以得とは云へども、なほ一如の故にと云。正く身の得る事はたしかならず。
今我が家は、身心倶に得なり。其中に、心をもて仏法を計校する間は、万劫千生にも不可得。心放下して、知見解会を捨時、得るなり。見色明心、聞声悟道ごときも、なほ身を得なり。
然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親得るなり。然ば道を得事は、正く身を以て得なり。是によりて坐を専にすべしと覚なり。
『正法眼蔵随聞記』巻3
このように、道元禅師も仏道は身をもって得るとしている。心は、身の正しき統御によって調うものである。その逆ではない。上記一節でも「見色明心、聞声悟道」などといっても、それですら「身」をもって得るとする。今日というスポーツの日、「身」をもって得るということを弁える機会にしたいものだ。
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