当代諸道ともに、其廃を起すといへども、戒学のみ未だ競わず。ねがはくは国家、令を下して、諸宗の僧徒をして、三所の戒壇に登らしめ、一へに毘尼を厳浄にして、先受戒・後受戒、専ら戒臘に依て、仏制の次第に負かずんば、庶幾は仏日の新なるを看むことを。
若ししかあることを得ずんば、唯吾洞門のみなりとも、衆議を一同にして、永平・大乗・總持の祖山に於て、戒壇を建立し、年年受戒の期を定め、一門の僧徒をして、剃染の日、各各其の師の許にして、沙弥戒を受けしめ、其後に、祖山の戒壇に上りて、比丘戒と、菩薩戒とを得て、すなはちこれを江湖乍入の初年とし、二十の臘を歴て、一会の首版を領し、有縁の知識の許にして、受法伝戒し、勅に応じて出世して、各所に鋪席を開かば、内には仏制に准じ、外には、東照の神訓に背かざるべし。希は有力の人、これを担当せんことを。
『曹洞宗全書』「禅戒」巻・306頁下段~307頁上段
非常に面白い願いである。本書の著者である一丈禅師は、江戸時代になって仏教はその廃を発したというけれども、戒学のみはそこまで達していないと歎く。よって、国家が先導して、戒学を復古させれば良いという。その具体的な内容は、まず宗派を問わずに、どこの僧侶であっても、「三所の戒壇に登らせる」とある。この場合の「三所」とは、奈良東大寺、福岡観世音寺、栃木薬師寺のことである。いわば、鑑真和上の戒律伝来以降に、国家主導で作られた戒壇を指している。
そして、その戒壇で正式な比丘になった順番で、全ての僧侶の序列を決めるべきだとしたのである。
一方で、そのようなことが出来なかった場合には、曹洞宗だけでも、皆で話し合い、永平寺・大乘寺・總持寺(開山順か?)という「祖山」に戒壇を建立し、毎年受戒の時期を決めて、まずは各地方の受業師の下で「沙弥戒」を受け、その後、「祖山」の戒壇に於いて比丘戒と菩薩戒を受けるべきだとしたのである。
更に、その受戒から20年が経てば、首座を勤め、最終的に縁がある指導者の下で受法・伝戒すれば良いとしたのである。
これにより、幕府が定めた修行年数(20年)も行い、同時に仏教の伝統的な律学にも契うとしたのである。
なお、いうまでもないが、この提案は結局採用されることなく、現代まで至っている。しかし、これが採用されると、日本の仏教もまだ、伝統的な仏教国に近いあり方になったのではないか?と空想してみる次第である。
また、先の一文から、一丈禅師が「沙弥戒」を重視していた様子が分かるのだが、やはり「出家」の定義を思うと、それは自然な発想である。しかも、本書では『毘尼母経』巻一から、「是非を選択して、能く信行する故に、名づけて受具と為す。又、沙弥十戒を受けるを受具と名づく」という一文を引用していて、受具の基本に沙弥十戒があるべきだという立場だったことが分かる。
ただし、やはり本書には疑義が呈されており、写本には次の一節が見える。
鳳仙乙堂云く、右の問答、其の意仏法荷担の志、切なりといへども、擬すべき所あるか。
前掲同著・314頁上段
「鳳仙乙堂」とは、拙僧も実世界で研究をしている乙堂喚丑禅師(卍山道白禅師の法嗣・隠之道顕禅師の法嗣、上州桐生鳳仙寺9世)のことであるが、本書を部分的に評価しつつも、「擬すべき所」があるとされた。実世界での論文でも書いたが、乙堂禅師御自身は戒師として行う授戒会を前に、本書を学んだようである。そして、本書の内容に疑問を持ち、自身の参究の余力に評論したいと思っていたが、それは現存するか知られず、拙僧自身も未見である。
しかし、乙堂禅師の評価の通りで、本書の立場は、伝統的な宗門の戒からいっても、一種異様の見解と思われる文脈がある。
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