諸法相い万すと雖も、其の要は善を為すに帰す。苟に能く其の法を守りて、而も各おの善を為すに篤ければ、則ち何ぞ彼此を択ばん、仏も亦た可なり、儒も亦た可なり。苟に善を為くると為す者は、乃ち一家なり。何に況んや、同じく仏を宗として、而も其の派を異にする者をや。
徒らに、其の派の之れ異有るを争いて、而も善を為せること無き者は、吾れ之を知らず。文も亦た可なり、幻も亦た可なり、其の志、誠に善を為すに在らば、則ち何ぞ不可ならん。徒らに幻と文とに淫して、而も善を為すに在らざる者、亦た吾れ之れを知らず。
出定後語 下 終
岩波書店『日本思想大系43』104頁を参照して拙僧が訓読した
これは、『出定後語』の最後の文章である。そして、富永仲基の基本的な宗教観といえる。要するに、富永にとっての宗教とは、「善を為す」という一言に尽きるのであり、その意味では世俗化の極みともいうべきだが、ただし、儒教の側に立っているわけでもなく、仏教の側に立つわけでもないという、非常に興味深い立場からの発言であるといえよう。
つまり、「苟に善を為くると為す者は、乃ち一家なり」という立場なのであり、更には、「何に況んや、同じく仏を宗として、而も其の派を異にする者をや」ともあるので、仏教で宗派に分かれていたとしても、そこに勧善が見えるならば、皆「一家」だということになるだろう。そのため、「徒らに、其の派の之れ異有るを争いて、而も善を為せること無き者は、吾れ之を知らず」としつつ、宗派の分割自体は良いとしても、そこで争い、善をしないのであれば、富永の知るべき宗教とはいえないと突き放している。
それから、どうしても、仏教を信じる者は「幻(神秘性)」にこだわり、儒教を学ぶ者は「文(修辞性)」にこだわることがあるが、その結果でも、善を為すことが無いのであれば、やはり富永の認める宗教性を発揮しないということになるだろう。
ということで、『出定後語』の大半の文章を読み終えた。まとめは次回の連載最終記事にしたいと思うが、今回の一節の論理を用いれば、大乗仏教もまた、勧善であれば富永に宗教として認められることを意味する。そして、結局、大乗仏教が、仏説では無いという主張については、後代に思われているほど原理主義的ではないということも理解できた。その辺もまた、次回の記事で採り上げてみたい。
【参考資料】
・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年
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