ついでに、新仏教運動を行った高嶋米峰などは、咄堂居士の見解が、余りに青巒居士に似ていることから「小大内」と呼び、一方で師の青巒居士のことを「大加藤」と呼んだ。後者の「ダジャレ」については、拙僧が指摘するまでもないか・・・米峰にはシャレのセンスが無い。
それで、咄堂居士については一度、「仏教教育」の立場から採り上げてみたいと思っているし、類似した先行研究も何本かあることは承知している。その上で、今回はこの人の演説から、題の通りのことを見ていきたいと思っている。
法律と宗教とは今申す通り其領分は違つてをりますが、もともと同一の人間を内から制配するものと外から制配するものとの差ですから、内部の心を支配する宗教が盛んであつたならば決して外部に現はれる法律の罪人などの出来るものではありませぬ。犯罪者の多いのは宗教の罪であると申してもよかろうと思ひます。
加藤咄堂居士『実地応用仏教演説軌範』(通俗仏教館・明治33年)70頁、漢字は現在通用のものに改めるなどした
この演説だが、咄堂居士が30歳位のものであるらしい。非常に堂々としたもので、なるほど、青巒居士の四天王といわれただけのことはある。しかも、聴衆は一般の民衆だったらしい。ただし、この人の立場については、非常に難しいところがある。師である青巒居士の見解でもあるが、どうも政教分離の導入については消極的なのである。無論、その際に同一人間の罪を、法律で裁くか?宗教の戒律で裁くか?といった問題があるのだが、上記を見ると、宗教の側に収め込んでしまいたいような印象を得る。
その印象を懐きつつ、以下の一文を見ると、咄堂居士の立場は更に明確になると思う。
詐偽取財とは奸智を廻して人の財産を欺き取るので智識のあるものでなければ出来ない犯罪です、此犯罪は少しにても宗教心あるものゝ出来ることではござりませぬ、泥棒などの弁護をするわけではござりませぬが、泥棒などには随分貧の盗と申して、フトした出来心でやるのもないとは思はれませぬが、詐偽取財は全く悪い意を以てたくらむですることですから、宗教の感化さへ行届けば此犯罪は減ぜねばならぬのです。泥棒の方は偸盗戒を犯すだけですが、此詐偽取財は偸盗と妄語との両方を犯してをるのです。
前掲同著・70頁
一見して、なるほどと思える内容ではある。しかし、この場合も、人の良心の涵養が、宗教の側に課せられていて、拙僧などは、その辺をこそ丁寧に論じたいところだが、咄堂居士の立場は明確で、或る種の信念すら感じる。とはいえ、この人も著作が多い(処女作は21歳の時で、釈尊への讃仰を示したものを発刊した)ので、他の立場もあったのかもしれないが、宗教を宗教として立てつつも、基本は国の政策に迎合する態度であった。その割には、神道の信者ではなくて、仏教徒であり、墓所も東京都内の曹洞宗寺院にあると聞いている。
よって、仏教への信心を持っている、或いは、仏教が好きだ、または、仏教で飯を食っているということになるのだろうが、とにかく仏教の側に近づけて話をするのである。上記の一節については、人の犯罪を、法律ではなくて、仏教の戒律の側から判断したらどうなるか?ということである。
そして、泥棒の場合は、止むに止まれぬ事情があるから、仕方ない(無論、擁護するつもりはないようだが)という考えも出て来そうなものとしつつ、詐偽取財については、狡知を回らして行うことなので、許すことは出来ないとしている。悪事について、意図して行うか、突発的に行うかでその軽重を分けるのは、仏教に限らず、様々な戒律・律法・法律に共通するところだが、咄堂居士は「詐偽取財」を偸盗と妄語の両方に掛かるとしている。
この辺は、現代に於ける特殊詐欺についても完全に当て嵌まる。現代に咄堂居士があれば、世情を大いに憂えたことであろう。まぁ、寺院としても特殊詐欺を防ぐための注意喚起と、後はやっぱり、世間に対して善悪の基準を教える位の道徳性を持ちたいものだが、この辺は真俗二諦の関係からも難しくはある。拙僧はそう思うが、どうも、咄堂居士は軽く考えている印象である。
この人の軽さは、どこから来るのかを知りたいが、一応出家の自覚を持っている者と、在家である者との違いだろうか・・・今後も、咄堂居士については記事を書きたいと思っているので、手始め的にこの記事を書いておいた。
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