そこで、今年は、禅宗の修行道場に於ける「勤労」観を見ていきたい。特に、道元禅師が叢林修行に於ける「勤労」について示された『永平寺知事清規』の一節を学ぶこととしたい。
『知事清規』とは、叢林で「知事」という役職に就いた僧の軌範を示したもので、特に道元禅師は中国やインドの事例を挙げながら、「知事とはかくあるべき」という見解を示され、基本精神は「知事は貴にして尊たり、須く有道の耆徳を撰ぶべし」とされる。今日は、中でも道元禅師が「最難極苦なり」とされた「園頭」という仕事を見ていきたい。
「園頭」は、文字からでも或る程度予想が付くかもしれないが、修行道場が持っている菜園の管理者であり、農業に従事する僧侶のことである。
園頭の一職は最難極苦なり、道心有る者の勤め来たれる職なり。道心無き人は充つべからざるの職なり。常に菜園に在りて随時に種栽す。仏面祖面、驢脚馬脚、農夫の如く田夫の如し。終日鋤鍬を携えて自ら畊し自ら鋤き、屎を擔い尿を擔って生根を怕れず、唯熟爛を待って時を失すべからず。地を鋤き菜を種える時には、裙褊衫を着けず、袈裟直綴を着けず、只白布衫中衣を着けるのみ。
『知事清規』「小頭首」章
まさに、菜園で田畑を耕し、米や野菜を育てていたという役職について述べられていることが分かる。さらに、肥料に関する説示まであって、多分に叢林全体を巻き込んだ役職だったと理解出来る(いわゆるトイレは汲み取り式)。しかも、時間を無駄にせずに、細々と手入れをするようにも指示されている。道元禅師の細やかな修行の様子が伝わってくるような御垂示といえよう。
なお、拙僧が気になったのは、一番最後に引用した園頭の服装(威儀)についてである。現在であれば、我々修行者が労働(作務という)に従事するときには、「作務衣」という動きやすい格好をするが、現在のような作務衣の様子になった時期などは、良く分かっていない。多分、最近だろう。名称としての「作務衣」は古来、五条衣(安陀会)のことであるとされ(『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」や、『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻などを参照)、いわゆる小さめの袈裟になるが、道元禅師は「袈裟」すらも着けないと指示していることからすれば、白布衫中衣(白い着物)だけを着て農作業をしていたことが推定される。
他の機会でも、道元禅師の会下で急な作務に従事することになった慧運直歳という弟子は「匠人と等しく綴を脱ぎ笠つけず」(『永平広録』巻8-法語6)という格好をしたようなので、おそらくは着物姿で作業をしたのだろうと拝察される。
菜園に在りては、朝晩に焼香礼拝念誦して、龍天土地に回向し、曾て懈怠せず、夜間には菜園に眠息す。〈中略〉誠に是れ道心の人、大名の人の勤め来たる者なり。小根の輩、不肖の族は未だ曾て職に充てられず。先師天童古仏の会に、西蜀の老普は、六旬余の齢にして始めて職に充てらる。一会替わらず、将に三箇年ならんとするに、雲水随喜す。先師深く悦ぶ。若し老普を以て諸山の長老に比せば、諸山の長老は未だ普園頭に及ばず。
『知事清規』「小頭首」章
菜園にいるときには朝晩に、焼香・礼拝・念誦という善行・仏行を積み、その功徳を龍天や土地神に回向することで、土地を護持してもらうことを期待し、さらに豊作を祈っていたと思われる。
さて、道元禅師はここで本師である天童如浄禅師の法会に、年老いた「普」という僧侶(60歳余りということだが、700年以上前のことだから、その高齢の様子は推して知るべし)がいたことを例にして、この僧が3年余りにわたって、園頭を勤めたことを、周囲の修行僧も大いに喜び、そして如浄禅師も悦んでいたことも指摘されている。これは、ただ単純に高齢だから凄いということもあるが、それ以前に「園頭」が、叢林に於ける肉体的労働の最たるものである。それを3年にわたって、黙々と勤めたことについて周囲の者が評価した。まさに、これこそ「勤労感謝」ということになるのだろう。
そういえば、良寛上人にも同参の「園頭」を讃える偈頌があったことを思い出したが、この記事も長くなったので、それは何かの機会に紹介することとしたい。
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