◎問ふ、既に永劫無限に相続して断滅せざるものならば、無量世の父母六親に追孝すべき筈なるに、只七世と限りたるは何ぞや。
○答ふ、そは且く世俗に随て七世と言ふのみ、又七世より以来愛習未だ去らざるが故に、教化すべきに堪ゆるを以てなり、実を言ふときは無量世なり、其生生我を養育するものは皆父母なるが故に、必ず孝を生生の父母に致すは仏家の習ひなり、故に現在の父母に孝養するは勿論、過去は無始世の父母に及ぼし、未来も無終世の父母を救はむとするは、仏家甚深の孝道なり
『盆の由来』第五問答・6~7頁
まず、この前の問答で、高田先生は仏教の道理は断常二見に落ちずに、とにかく無始無終に供養されていくべきものだと主張した。それに対するのが以上の問いである。要するに、供養が無始無終であるならば、なぜ、「六親眷属・七世の父母」といったような、供養すべき対象の数が限定されているのか?というものである。
それに対して、高田先生の答えとは、あくまでも世間のあり方に従って、「七世」という表現をしているのみだという。これは、七世と云う近くの祖先に対しては、愛執も去らず、特に教化されるべき対象だったということになる。しかし、実際には無量世の父母を供養すべきであり、更に、この人生に於いて自分を養育してくれた父母に対して孝を尽くすべきだという。
ところで、この「六親眷属・七世の父母」については、拙僧どものお唱えでも用いられており、かなり一般的ではある(なお、いつ頃から採用されたかは良く分からない。道元禅師も瑩山禅師も用いられておらず、中世の清規の一部には見えているようなので、その頃か)。施食会のみならず、毎朝の朝課諷経に含まれる「祠堂諷経」でも用いられる言葉である。
よって、その点は良いとして、分からないのが「無量世」である。これは、我々の回向文やお唱えには見当たらない。そこで、高田先生は、次の「第六問答」では、『大乗本生心地観経』や『梵網経』に見える、その典拠となる一節を引用された。後者については「第二十不救存亡戒」が該当している。
ただ、違和感が残るのは、あくまでも世間の一切の男性を父と思い、女性を母と思って供養すべきという話であって、世代をどこまでも遡る「無量世」にはなっていない。それで、施食供養という意味ではないが、類似した文言であれば、以下の一節が見られる。
次第に足下輪相も獲得す。何を以ての故に。菩薩と為りし時、無量世に於いて、父母・師長・善友・如法擁護の一切衆生を供養す。
『優婆塞戒経』巻1「修三十二相業品第六」
これは、人が世尊の如き「三十二相」を得るために必要な修行法を列挙したものだが、上記の通りあって、無量世に父母などを供養することを求めているのである。そうであれば、施食ではなくとも、自らの仏身成就へは必要な行いだと判断されて良い。
大雑把な結論ではあるが、拙僧なりに高田先生のご見解を補った次第である。
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