一、三宝棟梁
推古天皇三年五月丁卯、高麗僧・慧慈、帰化す、則ち皇太子、之を師とす。是の歳、百済僧・慧聴、此に来たる、
両僧、仏教を弘演す、並びに三宝の棟梁と為す〈類史〉。
『緇門正儀』9丁表~裏、訓読は原典を参照しつつ当方
「棟梁」という言葉は、棟や梁で、建物の屋根などを支える最も重要な材質である。それが転じて、一国を支えるような重職のことを「棟梁」という。更に、これが転じて、仏法を守り広める者という意味も持たされることとなった。
その上で、まず推古天皇三年とは、西暦で595年である。この年に、高麗(高句麗)から、慧慈という僧侶が日本に来た。「帰化」とあるが、慧慈は後に帰国した。よって、「来日」くらいの意味で考えた方が良い。
それから、「皇太子」とは、聖徳太子のことである。慧慈は、聖徳太子の師になったとされ、一説には『三経義疏』の作成にも関わったというが、詳細は良く分からない。また、同年に百済からは慧聴が来た。
2人とも、日本で仏法を広めたため、「三宝の統領」になったとされる。それで、この記事が「類史」を典拠にしたと書いてあるのだが、この「類史」とは何であろうか?ちょっと、拙僧自身は良く分からなかった。「史類」であれば、歴史書のことだが、ここでは明らかに「類史」である。その上で、典拠は『日本書紀』巻22「推古天皇」項であろうと思われる。ほぼ同じ内容が見られるためである。
【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事