つらつら日暮らし

「第一官律名義弁」其十六(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・16)

ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。なお、前回までは『大宋僧史略』を典拠に、中国での事例を検討していたが、今回からは日本となるようである。よって、登場する人物名は、日本史などで見たことがある人かもしれないので、読者諸賢にとっては中国仏教の記事より親しみやすいだろうか。

一、三宝棟梁
 推古天皇三年五月丁卯、高麗僧・慧慈、帰化す、則ち皇太子、之を師とす。是の歳、百済僧・慧聴、此に来たる、
 両僧、仏教を弘演す、並びに三宝の棟梁と為す〈類史〉。
    『緇門正儀』9丁表~裏、訓読は原典を参照しつつ当方


「棟梁」という言葉は、棟や梁で、建物の屋根などを支える最も重要な材質である。それが転じて、一国を支えるような重職のことを「棟梁」という。更に、これが転じて、仏法を守り広める者という意味も持たされることとなった。

その上で、まず推古天皇三年とは、西暦で595年である。この年に、高麗(高句麗)から、慧慈という僧侶が日本に来た。「帰化」とあるが、慧慈は後に帰国した。よって、「来日」くらいの意味で考えた方が良い。

それから、「皇太子」とは、聖徳太子のことである。慧慈は、聖徳太子の師になったとされ、一説には『三経義疏』の作成にも関わったというが、詳細は良く分からない。また、同年に百済からは慧聴が来た。

2人とも、日本で仏法を広めたため、「三宝の統領」になったとされる。それで、この記事が「類史」を典拠にしたと書いてあるのだが、この「類史」とは何であろうか?ちょっと、拙僧自身は良く分からなかった。「史類」であれば、歴史書のことだが、ここでは明らかに「類史」である。その上で、典拠は『日本書紀』巻22「推古天皇」項であろうと思われる。ほぼ同じ内容が見られるためである。

【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年

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