春季皇霊祭
春、秋の彼岸の中日は皇霊祭といつて、神武天皇から、明治大帝に到るまでの歴代の皇霊をお祭りし給ふのである。
皇霊祭は明治二年六月二十八日に、明治天皇が、百官を率ひて神祇官に行幸せられ、天神地祇及び歴朝の皇霊を御祭りになつたのが初であらう。然し歴代の皇霊を御祭りになつたことは之以前に於ても往々歴史の上に見えてゐる。皇霊祭の名称のつけられ宮中の恒例とせられたのは明治天皇の叡慮によるものである。
皇霊祭御親祭の次第を察するに、皇霊殿及び神殿の御親祭がある。
神殿祭は八神、天神地祇の二祭典であつて、何れも我が国古くから行はれた儀式である。此の日天皇、皇后両陛下の御拝、皇太子殿下の御拝がある。
由来祖先を尊び、神を敬ふといふことは、我が国民性の特質である。陛下御親ら皇霊を御祭りになる所以を知らば、国民たるものは等しく聖意を体して、遺訓に遵はねばならない。
小林鶯里『新しき年中行事』文芸社・大正13年(1924)
本書は、明治時代以降、特に関東圏で始まった様々なお祭りなどについて、その由来などを記した文献である。以前から、拙僧などは、現在の皇室が行っているお祭りの多くは、明治時代以降に作られたものに過ぎない、という話を聞いてはいたのだが、こういう文脈からもそれを伺うことができる。
とはいえ、この場合は、明治天皇によって、皇室の祖先霊のお祭りがされたというのは、その通りであろうし、それ以前から既に、類似したお祭りがあったということではあるが、現在の彼岸会の中日に合わせて行うようになったのが新しいということになる。拙僧などは、この辺の重層性が、日本の宗教性の特質だろう、とか思っている。
引用文末尾にあるように、日本人が祖先を尊び、神を敬うというのはその通りなのだろう。神道の原型である氏神信仰などにそれが端的である。然るに、それを上手く使って、供養の方法を確立したのは仏教であろう。仏教に祖先崇拝が無かったわけではなく、インドであれば『六方礼経』があるし、中国以東であれば『梵網経』『父母恩重経』などに、それが顕著である。要は、そういう教えを上手く取り入れながら、日本では仏教が先祖供養を行った。その中で、「善行」の確立として、彼岸会が出来ていったわけである。
中世に於ける「彼岸会」の記述を見ていくと、この期間は所謂『閻魔帳』に、その人の善悪業が記載される時期であり、よって、人々は「善行」をなした。その「善」の極みが、先祖供養や、寺参りであったわけで、現在の彼岸会中に行うべきとされる習慣は、中世に確立された習慣に影響を受けているといえる。
その上で、今度はそれを、「皇霊祭」の形で、明治期の神道というか、皇室が取り入れたということになる。無論、『閻魔帳』云々が問題になったのではあるまい。ただ、彼岸会には先祖供養を行うというところだけが強調されたのだ。よって、日本古来の宗教観と仏教、神道がお互いに影響し合って、宗教的文化や伝統、習慣を重層的に作ってきたといいたいのである。
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