ということで、今日は時・時間・時節に関する教えを見ていく日としているのだが、以前【出家後の坐次の順番について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・8)】という記事でも指摘した通り、比丘の順番は出家した時間で決まるのだが、その時間を定めるのに、日時計と同じ原理(日時計そのものではない)を使っていたわけである。
これに関連して、気になる一節があった。
大婆羅門よ、今、復た漏刻の法を説く。
人の瞬の頃の如きは、一羅婆と名づく。
此の四羅婆もて、一迦啅と名づく。
四十迦啅もて、一迦羅と名づく。
三十迦羅もて、則ち一刻と名づく。
是の如き二刻もて、名づけて一分と為す。
一刻の用水、五升盈満す。
円筩四寸なり。
以て瓶下に承る。
黄金六銖、以て此の筩と為す。
漏水五升、是れを一刻と名づく。
是の如くの時法、我れ已に分別す。
『摩登伽経』巻2「明時分別品第七」
まぁ、密教に於ける時間論に関係する文献として、本経典の本品は結構知られていると思う。それで、ここでいわれているのは、「漏刻」についての話である。先ほども指摘したように、これは「水時計」のことだが、水自体が持つ性質を利用し、一定の時間に一定の量が落ちて、下に置いた桶などに貯まることを想定して、全体の時間を計ろうというものである。
もちろん、現在の我々が考えているような厳密な時間ということはあり得ないし、実際には他の様々な時間計測法も併用されていたようだが、まずは、上記の内容を見ておきたい。とはいえ、様々な単位を考えるのが難しくはあるので、その点は現代的な見方や数値が混入することをお許しいただきたい。
それで、まず上記の内容からすると、人のまばたきで「一羅婆」だとしている。現代的な計測だと、1回の瞬きは0.1~0.15秒ともされているので、0.4秒で「一迦啅」となり、16秒で「一迦羅」となり、8分で「一刻」となり、16分で「一分」である・・・これは、まばたきの速度を早く設定しすぎであることが分かる。何故ならば、本経典では「昼夜分別して、三十分有り」としているためである。要するに、現代的な「24時間=三十分」であるから、このままだと480分(8時間)で一昼夜となってしまう計算だ。
ということで、やっぱり逆から見ていった方が良い。
まず、「一分」とは、24時間=1440分の1/30であるから、48分となる。その半分だから「一刻」は24分である。24分=1440秒であるから、「一迦羅」は48秒である。そして、「一迦啅」とは1.2秒である。更に、「一羅婆」は0.3秒であり、これが人の瞬き1回分である。現代の計測より2~3倍程度多めの時間が想定されているが、コンマ秒程度の違いだから、意外と正確だともいえる。
それから、「漏刻」の話に戻すが、「一刻の用水、五升盈満す」とある。先ほども述べたように、「一刻」とは「24分」であるから、それくらいの時間で、「五升」の水が満ちるという。問題は、この「五升」の量だが、中国の古代では、「1升=200㎤」だったともいうので、5升だと1000㎤だったことになる。これはつまり、1000ミリリットルなので、5升=1リットルとなる。
つまり、24分で1リットルになった計算となるので、1秒間に0.69ミリリットルの水量だったことになる。水1滴で0.05ミリリットル程度という指摘があるので、その14倍程度の量が必要だから、イメージ的には1滴ごとポタポタ落ちた感じではないな。もちろん、中国古代の度量衡の計算が間違っている可能性が大いにあるので、桶の大きさについて違っていれば、この数字も異なるから、イメージはだいぶ変わることになることを付記しておきたい。
とにもかくにも、かつて、時間はアナログに計測されていたわけである。それでも、全体の動きなどに、そこまで影響は無かったようなので、そういう仕組みで動いていたのだろう。それに、時間とは、使われるものではなくて、使うもの。自分の時間とは、誰かに用意してもらうものではなくて、自分で作るものと思っていれば、何とも自由ではあるし、こういう記事を書く時間、或いは読んでいただく時間も出来るわけである。
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