というか、そもそも、相見を否定してどうなるんだ?という話でもある。今日は、その辺について別の視点から考えてみたい。
明庵千光禅師前権僧正法印大和尚位忌辰の上堂〈師、先ず仏樹和尚に学ぶ。仏樹は明庵の門人なり〉に、挙す、師翁、虚庵和尚に問う、学人、不思善不思悪の時、如何。
『永平広録』巻6-441上堂
且く道え、師翁千光和尚、即今、何の処に在りや。
『永平広録』巻7-512上堂
この2つの文章から、道元禅師が親しく、栄西禅師を「師翁」と呼んでいたのは理解出来ると思う。また、その理由についても、前者の引用文をご覧いただければ分かるように、道元禅師は日本にいた頃、建仁寺の明全和尚の弟子であり、その明全和尚が栄西禅師の門人であることから、道元禅師にとって師匠の師匠である栄西禅師を「師翁」と呼ぶことになっている。なお、具体的な時期は不明だが、道元禅師は明全和尚から菩薩戒を受けたようで(1225年、中国天童山であろう)、その意味でも師翁の位置付けである。よって、道元禅師は師翁に対して、その忌日(毎年7月5日)に追悼の上堂を行ったのであろう。
ところで、それを考える時、道元禅師にはもう1人、「師翁」がいることが分かる。それは、『正法眼蔵』「仏祖」巻を見れば一目瞭然である。
智鑑大和尚 如浄大和尚〈東地第二十三代〉
道元、大宋国宝慶元年乙酉夏安居時、先師天童古仏大和尚に参侍して、この仏祖を礼拝頂戴することを究尽せり。唯仏与仏なり。
「仏祖」巻
部分的な引用なのだが、要するに「仏祖」巻は、道元禅師が受け嗣がれた仏祖の伝燈を、その伝持者の名前を書き連ねることで証すものであり、智鑑大和尚―如浄大和尚―道元禅師という流れが見て取れる。なお、引用箇所の「道元」についてだが、多分に後文の冒頭であると同時に、仏祖の伝持者であることの証しでもあろう(この辺は、同巻の写本を丹念に見ていかないと分からない)。
そこで、道元禅師が仏祖の大法を嗣いだ天童如浄禅師の本師、いわゆる雪竇智鑑大和尚もまた、「師翁」になるはずである。それを考えた時、『正法眼蔵』の或る一節を思い出した。
雪竇師翁、示衆曰、世尊有密語、迦葉不覆蔵、一夜落華雨、満城流水香。
而今雪竇道の一夜落華雨、満城流水香、それ親密なり。これを挙似して、仏祖の眼睛・鼻孔を?点すべし。臨済・徳山のおよぶべきところにあらず。眼睛裏の鼻孔を参開すべし、耳処の鼻頭を尖聴ならしむるなり。いはんや耳鼻眼睛裏ふるきにあらず、あらたなるにあらざる渾身心ならしむ。これを華雨世界起の道理とす。
師翁道の満城流水香、それ蔵身影弥露なり。かくのごとくあるがゆえに、仏祖家裡の家常には、世尊有密語、迦葉不覆蔵を参究透過するなり。七仏世尊、ほとけごとに、而今のごとく参学す。迦葉・釈迦、おなじく而今のごとく究辨しきたれり。
『正法眼蔵』「密語」巻
この「雪竇師翁」こそ、道元禅師が自ら、雪竇(足庵)智鑑大和尚を「師翁」と認めていたことによる一文だといえる。なお、この一節は、『嘉泰普灯録』巻17に見えるもので、雪竇智鑑大和尚の説示として残る、貴重な文脈である。宋代に編まれた『続伝灯録』『五灯会元』(ただし、これらを道元禅師は見ていない)や、清代に編まれた『続指月録』にも、智鑑大和尚の伝記が見えるけれども、それでもこの示衆を収録している。転ずれば、ほとんどこれしか知られていない。なお、瑩山禅師『伝光録』第49章では、この前半の「世尊有密語」を以て、智鑑大和尚の大悟の機縁とするけれども、他に依るべき文脈が無く、それでそのように示されたのであろう。
話を戻すが、道元禅師はこの語を、『嘉泰普灯録』で知り、自らの『正法眼蔵』にて用いられた。確かに、「世尊有密語」については、洞山良价禅師の法嗣である雲居道膺禅師の教えであって、曹洞宗としてはこれもまた、系譜的に参究されねばならない重要な一則であるから、このように用いられたのであるし、「臨済・徳山のおよぶべきところにあらず」ともされるのであろう。
合わせて『宝慶記』でも、如浄禅師の言葉に「先師雪竇の処にて」とあるので、道元禅師も智鑑大和尚を「師翁」と認識しておきながら、何故か追悼の上堂を行った形跡が無い。それは何故だろうか?以下の2点を指摘したい。
(1)遷化の月日を知らない。
⇒『嘉泰普灯録』には、先の一節のみを掲載するため、このことは十二分に考えられる。
(2)相見した人のみを顕彰した。
⇒栄西禅師を追悼する意味が分からず、その点では、相見の有無に関連させると良いのではないだろうか。
以上である。なお、(1)について申し上げれば、まだ智鑑大和尚遷化から時代的にそう経っていない当時、道元禅師自身もまだ中国との連絡・関係を断ってはいないはずなので、調べようと思えば出来たはずである。その点から思えば、やはり(2)の可能性を指摘したい。つまり、自ら相見したことがある、系譜上の祖師を讃えるのが、この追悼の上堂であったという仮説である。もちろん、挙げたくはないけど(3)として、「有名人であった栄西禅師の名前を借りたかった」という話もあるとは思う。ただ、そうであるならば、相見した1人とした方が尚更に良いはずで、その意味でも、(2)の説を採りたいのである。
簡単な記事ではあるが、推測を積み重ねてみた次第である。
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