つらつら日暮らし

釈尊は偶像崇拝を禁止したのか?

周りの人達が「釈尊は偶像崇拝を禁止していた」という話をしていたのだが、拙僧的にはあれ?と思った。いや、以前から「律蔵」について読んでいるが、仏像はもちろん、偶像についての話など見たことが無い。しかし、釈尊自身が生きている間は、仏陀を像にする必要はないわけで、仏像がどうこうとかいう話にならないのは当然か?!

もう一方で、その後、全世界では仏像が造立され、崇拝されている。そうなると、「律蔵」での不在は、偶像崇拝などを「禁止」した形跡が無いことになる。その辺を思って、ちょっとだけ調べてみると、以下のサイトが見付かった。

初期仏教が偶像崇拝を禁止していた言うのは本当ですか?(Yahoo!知恵袋)

いや、このアンサーについて、ちょっと笑ってしまった。いくら何でもこれは酷い。ただの日本仏教叩きになってしまっていて、質問者への質問に答えていない。それから、ベストアンサーの人も、知った風なコメントを書いているが、だったらその教えの文章を、典拠として引用しなくてはならない。だが、明示されていないので、このコメントは全て、肯うに値しない。

ということで、以下は拙僧なりに思うことを書いてみたい。以前から、拙ブログでは明治期以降の日本に於ける仏教の理解と、それ以前とでは、様相が違うことを主張している。その上で、一部の人は、明治期以降の仏教学研究に於いて主張された学説などを「正しい」と見て、それ以前を「誤っている」などと簡単にいうが、安直に「真偽」で物を語る人は気を付けた方が良い。明治期以降の学説が「事実」なら、それ以前の祖師方の言説もまた「事実」なのである。歴史とは、真偽の揺れ動きでは無くて、事実の積み重ねである。

ところで、現在の日本仏教寺院の多くは明治期以前の建立であり、本尊なども安置されていることであろう。ここを疑問に思った人はいるのだろうか?おそらくはいないからこそ、全ての寺院に本尊が安置されている。そうなると、ここで「だから間違っている」と思うのは、ただの「ドグマ」でしかなく、正しく把握するべきは、どういう意図によって仏像の建立が受容されたかを知ることである。

そこで、中国で仏教経典として扱われた文献について、訳経目録には以下のようなものがある。

・造立形像福報経
・優填王経〈五紙、一は優田王作仏像経と名づく〉
・大乗造像功徳経


とりあえず目に付いたものを挙げただけなので、しっかり調べれば他にもあることだろう。つまり、仏像を造ると功徳があるという教えが中国には伝わっていた。それで、注目したいのは、真ん中の『優填王経』である。これは、日本でも有名な仏像にも因む経典であり、更には阿含部にも入っている。

爾の時、優填王手で牛頭栴檀像を執り、并びに偈を以て如来に向かいて説く、
  我れ今、問う所を欲するに、慈悲もて一切を護り、
  仏の形像を作るは、為に何等の福を得んや。
爾の時、世尊、復た偈を以て報じて曰く、
  大王、今之を聴け、少多に其の義を演べん、
  仏の形像を作るは、今、当に粗あら之を説くべし。
  眼根初め壊れず、後に天眼視を得ん、
  白黒而も分明なり、仏の形像を作るの徳なり。
  形体当に完具すべし、意正しくして迷惑せず、
  勢力、常人に倍するは、仏の形像を造る者なり。
  終に悪趣に堕せず、終に輒く天上に生ず、
  彼に於いて天王に作るは、仏の形像を作るの福なり。
  余福、計うべからず、其の福、思議せず、
  名、遍ねく四遠に聞こゆ、仏の形像を造るの福なり。
  善き哉、善き哉、大王よ、多く饒益する所、天・人祐を蒙る。
爾の時、優填王、極めて歓悦を懐き、自ら勝ること能わず。
    『増一阿含経』巻28「聴法品第三十六」


この優填王が作らせた「牛頭栴檀像」の話は、多分有名な一件である。釈尊が帝釈天に説法に行っている間、優填王は二度と釈尊に会えないのでは無いか?と憂えていたので、群臣は仏像を造って礼拝することで、釈尊に直接会うことの代わりにしたらどうか?と提案し、「優填王、即ち牛頭栴檀を以て如来の形像を作る、高さ五尺なり」(同上)とあって、「牛頭栴檀」という香木を使って釈尊像を造ったのである。なお、「牛頭栴檀」とは釈尊入滅時に、その御遺体を火葬にする際に用いた香木でもあるという(阿含部『大般涅槃経』参照)。

その後、釈尊が人間界に帰られた後、優填王は自分が作らせた仏像を持って行き、それを造る功徳があるかどうかを世尊に尋ねたところ、上記の通り、功徳があるので作るべきだと勧められたのであった。上記のことから理解出来るのは、在家信者が功徳を得るために仏像を作ることは肯定されていたことである。もちろん、上記の一節は『増一阿含経』に書かれていることで、直ちに釈尊の直説とは定められないが、伝承としては古く、更には、先ほどの「訳経目録」で示したように、上記一節を単独の経典としても訳出されるに到った。なお、この優填王の仏像だが、後に中国五台山にもたらされ、更に日本では京都嵯峨清凉寺の釈尊像に到ったのである。

増一阿含経に云く、優填王、牛頭旃檀を用いて仏の形像を彫る、高さ五尺、此れを始めと為すなり。
    『釈氏要覧』巻2「雕像始」項


なお、中国宋代に編まれた仏教辞書では、以上の通り優填王の一件が、仏像を作った最初として立項されている。そして、話は変わるが、上記の影響かどうかは知らないが、中国で製作された『梵網経』という菩薩戒の経典では、以下の一節も示されている。

なんじ仏子、常に二時に頭陀し、冬夏に坐禅し、結夏安居して、常に楊枝・澡豆・三衣・瓶・鉢・坐具・錫杖・香炉・漉水嚢・手巾・刀子・火燧・鑷子・縄床・経・律・仏像・菩薩形像を用うべし。而も菩薩、頭陀を行ずる時、及び遊方の時に、百里・千里を行来するには、此の十八種物、常に其の身に随えよ。頭陀は、正月十五日より三月十五日に至り、八月十五日より十月十五日に至る。是の二時中、此の十八種物、常に其の身に随うは、鳥の二翼の如し。
    「第三十七故入難処戒」


いわゆる比丘六物に対し、こちらは菩薩が持つべき十八種物である。道元禅師は「この十八種物、ひとつも虧闕すべからず。もし虧闕すれば、鳥の一翼おちたらんがごとし。一翼のこれりとも、飛行することあたはじ、鳥道の機縁にあらざらん。菩薩もまたかくのごとし、この十八種の羽翼そなはらざれば、行菩薩道あたはず」(『正法眼蔵』「洗面」巻)とされる通り、菩薩道に不可欠だとされたが、ここに「仏像」と入っているのである。そうなると、当然に道元禅師が仏像を不用と仰ったことは無く、以前に【初期曹洞宗教団の「本尊」に関する一考察】という記事でも明らかにしたが、道元禅師が建立された寺院では仏像が安置されていた。

つまり、上記のように、仏像を作ることが積極的に認められていたのは「事実」である。そして、それが後の「学説」などで否定されたかもしれないが、「事実」が揺らぐわけでは無い。その「事実」を超えて、真偽・正誤を問うのは、ドグマである。先の「Yahoo!知恵袋」に見える回答の全てが歪んで見えるのは、「事実」を問うのではなくて、自らの信念を吐露しているに過ぎないからである。それに、偶像崇拝がどこかダメなものだという観念も、結局はユダヤ・キリスト・イスラームという一神教の系譜が、最高の宗教だと見なしていた時代の残滓ではないのか?

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