なお、人は、漏刻などを作ることによって、時間を取り出すことが可能になった。しかし一方で、時間によって支配されることもある。この辺の所を考えた禅僧がいた。
上堂、記得す。
趙州、因みに僧問う、「十二時中、如何か用心せん」。
州云く、「你、十二時に使わるる、老僧、十二時を使得す。你、那箇が時をか問わん」。
師云く、趙州、恁麼に道うと雖も、永平、箇裏に至って、又た且く如何がせん。你、十二時に使わる、你の祖師禅に会することを許す。老僧十二時を使得す、老僧如来禅に会することを許す。
這箇は是れ超仏越祖底の道理。作麼生か是れ仏祖屋裏底の道理。
良久して云く、鉢盂開口喫飯す。
『永平広録』巻3-245上堂
趙州禅師の問答、典拠は『古尊宿語録』『趙州録』辺りかな?この「十二時」というのは、ただの「時間」という風に捉えることは許されておらず、まさに「法」そのものとして考えるべきだとされる。よって、これは法と我との関わりについて問答しているともいえる。法中にあって、如何にしてこの平常心を用いていくべきか?を問う僧に対し、趙州は、それでは法に使われるのみであって、老僧は法を使っている、一体、お前はどの「法=時」を尋ねているのか?と喝破した。
そして、道元禅師は或る時、十二時を次のように指摘したことがある。
黄檗いはく、十二時中不依倚一物、といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時中なるがゆえに仏性明見なり。この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏に十二時のあるか、白銀世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。
『正法眼蔵』「仏性」巻
十二時中というのは、法の独露なる事実をいうのであって、不依倚一物であり、或いは即不中ともいえる。だからこそ、仏性明見でもある。この明見とは、いわゆる感覚器官としての眼に於いて見えることを意味しない。だからこそ、「いづれの時節到来なりとかせん」と、未限定の事実を弄するしかない。「いづれの国土なりとかせん」と、「無刹不現身」の事実を弄するしかない。法の無辺際なる事実にただ、この私を任せる、それは、道元禅師が「祖師禅を会す」とされた。
しかし、逆に法全体を自由自在に使いこなすこと、それを「如来禅を会す」とされる。法に使われるのが祖師であれば、法を使うのは如来である。祖師と如来の役割の違いは明らかで、殊更に「法」との関わりと示す時、その法を開いて、世界そのものを開く仏陀=如来は、その中で生きるしかない祖師とは全く違う。
ただし、道元禅師はそれを、「超仏越祖底の道理」として、或る種の特権的観察者の位置から評した。では逆に、仏祖そのものの立場から評するのならば、どうすべきか。観察者は、いたずらに修行者そのものの位相の外から、位相の内部を邪推するしかない。しかし、ともに修行者として生きる場合には・・・それこそ、「鉢盂開口喫飯す」ということになる。
我々は、食事をいただく際に、「鉢盂=応量器」を用いる。その意味では、口を開くのは、「この私」になりがちだが、真に現場に目を着ければ、口を開いているのは、「鉢盂」である。食器が口を開き、食事をしている。仏祖を超越するのではなく、仏祖そのものに成り切るとき、飯が飯を喫し、鉢盂が鉢盂を喫し、僧が僧を喫する。その上で、鉢盂が飯を喫し、飯が僧を喫し、僧が鉢盂を喫する。ここに、十二時=法を自在に扱う禅僧が現成公案された。