老を敬い幼きを慈しむや否や。
『禅苑清規』巻8「一百二十問」
この『禅苑清規』の「一百二十問」というのは、僧侶として特に120項目について、正しく実践できているかどうかを確認するための問いである。ただ、質問項目だけが書かれているので、具体的にどのように活用されていたかは分からない。しかし、「亀鏡文」「誡沙弥」などの項目に挟まれているので、おそらくは初学者に尋ねたもの、或いは初学者が自問自答するようなことだったのかもしれない。
そこで、その120項目の内、まさに「敬老」というべき内容が上記一問である。今更訳す必要も無かろう。
さて、それでは仏教に於いて、何故老を敬い、幼きへ慈しみの心を持つべきなのだろうか?『禅苑清規』からは知られないが、以下のような一節を見出した。
布施及び安忍、
精進して禅智を修し、
経論を読誦し書し、
仏菩薩を礼念し、
或いは仏廟を修営し、
或いは僧坊を造建し、
或いは聖形を塑画し、
或いは古き経像を修し、
或いは三宝を歌詠し、
或いは塔を掃き華を献じ、
或いは焼香・然灯し、
或いは楽を作して供養し、
或いは師親を奉養し、
或いは世に仁義を行い、
或いは老を敬い幼きを慈しみ、
或いは諸有情を悲し、
或いは他善に随喜し、
或いは謙心し軟語し、
宜しきに随って但だ一を行えば、
亦た当に仏道を成すべし。
『釈迦如来行蹟頌』巻下
これは、世間に於ける在家信者が心得るべきこととされているようだが、これらのことが出来れば、最後に見えるように仏道を成ずることが出来るという。
老を敬い幼きを慈しむとは、亦た仁義なるのみ。意を以て得るべし。
謂わく敬とは則ち義、慈とは是れ仁なり。故に仲尼の曰く、吾が老を老として、以て人の老に及ぼす。吾が幼を幼として、以て人の幼きに及ぼす。是れ則ち天下は掌を運らすべし。
同上
この内容から、結局は世間に於ける価値観で説明しようとしていることが分かる。要するに、敬老の精神を「義」であるとし、その根拠を「仲尼」とはあるが、具体的には『孟子』中の一節を用いて説明している。確かに本書の場合は、在家信者の精神を問うものであるから、上記の通りで良い。
さて、それでは冒頭の『禅苑清規』に戻ると、出家者が出家者としての敬老について、どう考えれば良いのだろうか?
凡そ道眼を具え之の徳に遵うべき者、号して長老と曰う。西域の道高臘長なるが如きは、須菩提等を呼ぶの謂なり。
『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」
このように、長老については道眼があるという。そうなると、その徳に従うべきなのだから、尊敬されそうな相手をただ尊敬しているようにも見え、やや違和感を得るのも事実である。そういう点からすれば、今日という日の敬老は、やはり「義」として行われるべきことなのだろう。
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