夫れ学道は、道に礙えらるなり、道に礙えるる者は悟跡を亡ず。
仏道を修行する者は、先ず須く仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須く自己本道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減無く、悞謬無きなり。是の如くの信を生じ、是の如くの道を明らめ、依りて之を行ず。乃ち学道の本基なり。
『学道用心集』「道に向かって修行すべき事」、原漢文
前10章に分かれている『学道用心集』の第9章の一部が上記引用文である。そこで、今回見ていきたいのは、「学道の本基」である。なお、「本基」という用語、用例は決して多くは無いが、上記の一節と、『正法眼蔵』「面授」巻に見られる。
かの三十七品菩提分法は、この仏面・仏心・仏身・仏道・仏尖・仏舌等を根元とせり。かの八塔の功徳聚、また仏面等を本基とせり。
「面授」巻
要するに、釈尊の遺骨を祀った八塔の功徳が集まる様子は、仏面を始めとする釈尊の全身心を本基にしているということになる。「本基」、それ自体の意味は決して難しくは無い。それでは、先ほどの『学用用心集』の場合はどうであろうか?これは、よく知られた一節ではあると思うのだが、簡単に解釈してみたい。
仏道を修行する者は、まずは仏道を信じるべきであるという。仏道を信じる者とは、自己が本より仏道中にあって、それに迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、そして、得たり得なかったりといった増減も無く、誤謬も無いという。この場合の迷惑は、文字通り「迷い、惑う」の意味であって、現代的な表現の「迷惑した」という意味では無い。このように、仏道にあることを信じ、仏道を明らかにし、そして仏道を行うこと、これが「仏道の本基」であるという。
この一節について、江戸時代の註釈では以下のようになっている。
信ずれば明なり、この信と明とに依て、修行するが、学道の根本の基趾なり、
面山瑞方禅師『学道用心集聞解』
・・・「学道の本基」について、江戸時代最大の学僧・面山瑞方禅師は「学道の根本の基趾なり」と表現されている。この「基趾」という表現が、少し気になるが、面山禅師御自身が、「基は基趾とて、屋敷などの、崩して、あとののこれるなり」(『経行基聞解』)としている。そうなると、「あとかた」の意味合いも含むことが分かる。つまり、先に発した信と明(智慧)が、あとかたとなって修行に展開されることを意味していよう。
ところで、道元禅師は「夫れ学道は、道に礙えらるなり、道に礙えるる者は悟跡を亡ず」と仰っている。いわば、道に妨げられることなのだが、妨げはダメなイメージだが、仏道に妨げられるので、実は仏道そのものになっているのである。よって、それを「信」じて、「明」らかにすることが求められるといえる。『弁道話』でも同じような教えが展開されているので、道元禅師の初期の教えで重要な位置を占めるものだといえる。
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