大科第四 焼香
焼香竟て唱て云ふべし、
願くは我身浄じて香炉の如く、願くは我心智慧の火の如く、
念念に戒定香を焚焼して、十方三世の仏を供養したてまつる。
『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方
そもそも、本式は広略両本があったとされる『浄土布薩式』の略本であるから、本文としては短い。だが、それでも、次の科からは、口訣や願文等が入ってくるため、かなり長くなってくる。
上記の「焼香」の項目だが、香炉に香を焚く意義について、偈頌で述べられている。そして、調べたのだが、この偈頌には典拠があった。善導和尚の『法事讃』巻上である。これは、流石に適した典拠があったので、引用されたのであろう。
さて、これで記事を終えてしまうと、余りといえば余りなので、少し註釈書を見てみたのだが、興味深い一節が見られた。江戸時代に入ると、『浄土布薩式』について、法然上人の真撰とは認め難いという批判書が出ることになった。その一として、西山派の南楚上人が著した『布薩式弁正』(1661年版)では、この「焼香」の項目を、以下のように述べている。
偽式第四科焼香、評して云く、事鈔は別科ならず、供養段に属す。事鈔の焼香の偈に云く、華厳に云く、戒香定香解脱香、光明雲台遍法界、供養十方無量仏、見聞普薫証寂滅〈已上〉。偽式、願我等の偈に替へ、経文を捨てると雖も、大師の偈に替ふ、大なる咎、無きか。
『布薩式弁正』
ここで、『浄土布薩式』のことを、「偽式」と呼んでいることからも分かるように、批判しているのである。そして、『事鈔』とは、『四分律刪繁補闕行事鈔』を指すのだが、同書の巻上四「説戒正儀篇第十」があり、それとの比較をしている。
同書には「焼香偈」として、上記の一節が上がっているのだが、『浄土布薩式』では法然上人の偈に替えてしまったという。ただ、これが大師(法然上人)のことだと見て、経文を捨てたが、法然上人の偈に替えたのであれば、大きな咎にはならないとしている。
しかし、どうだったのだろうか。これが法然上人の偈だという根拠は何なのだろうか?そこまで検討してから記事にしろ、とかいわれてしまいそうだが、分からなかったので、反省しつつ今後の課題にしたい。
【参考資料】
・宗書保存会『続浄土宗全書』巻15、大正14年
・浄土布薩式(新編浄土宗大辞典web版)
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