つらつら日暮らし

『大宝積経』巻90に見る「大破戒」について(2)

タイトルの一件について、一度文脈を見ておきたいと思っていたので、この記事で採り上げてみたい。たいがい、「声聞の持戒は……」を検討する場合、該当する文脈しか引かれないが、今回は全体を見直してみたら、ちょっと面白かったので、確認してみたい。なお、【(1)】の続きである。

 〈以上は前の記事〉是の義を以ての故に、
 菩薩乗の護戒を尽くさずと説くと為し、声聞乗の護戒を尽くすと説くと為す。
 諸菩薩の戒の開遮を説くと為し、諸声聞の唯だ遮戒のみを説くと為す。
 菩薩乗の深心戒を説くと為し、声聞乗の次第戒を説くと為す。
 云何が、菩薩の持して護戒を尽くさず、声聞乗の持して護戒を尽くすや。
 菩薩乗の人、浄戒を持つと雖も、諸衆生に於いて応当に随順すべし。声聞乗の人、応に随順すべからず。是の故に菩薩の持して護戒を尽くさず、声聞乗の人持して護戒を尽くす〈以下は次の記事〉。
    『大宝積経』巻90「優波離会第二十四」、原漢文


この一節の意味であるが、いわゆる声聞と菩薩の持戒のあり方に、根本的な相違が存在することを前提にしつつ、上記の一節に続いている。

菩薩乗での護戒を尽くさないと説くことは、一方で、声聞乗で護戒を尽くすと説くのである。それから、諸菩薩の戒では開遮(持戒の行為として、何を赦し、何を赦さないのか)を説くけれども、一方で声聞の戒では遮戒(要するに、禁止事項が主ということ)のみを説くという。

それから、菩薩乗は深心戒を説くが、声聞乗では次第戒を説くという。この「深心戒」については、仏典上では内容を深める様子は無い。ただし、羅什訳『大品般若経』では、「浄心深心」という語句が見える。阿耨菩提を得るための信心の結果、得られる心のようにも思える。なお、『大智度論』でも、「深心に持戒す」という表現が見えるので、何らかの関係があるのかも知れない。また、『般若経』系の「深心」は布施という喜捨によって成り立つ。つまり、捨てるところに、心が深まるのである。

それから、菩薩については、持戒・護戒を尽くすわけではないが、声聞は護戒のみを尽くすという。この意味の違いは、菩薩の場合は、浄戒を持するといっても、救済されるべき衆生の様子に於いて相手に随順するため、例外事項などが多く存在することになる。いわば、ここに「開遮」が必要なのである。一方で、声聞の場合には相手に合わせて随順することがないため、結果として、持戒・護戒のあり方に、開遮を学ぶ必要がある場合と、遮戒のみとの場合があるのである。

当方ではまだ、『大宝積経』についての学びが足りないが、本経の段階でここまで「菩薩戒」の意義が検討されていることを確認した。なお、この記事はあと一回だけ続く。

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