皆人の南無阿弥陀仏をこころえて往生すべきやうにおもへり。甚謂れなき事なり。六識凡情をもて思量すべき法にはあらず。但し領解すといふは領解すべき法にはあらずと意得るなり。故に善導は、三賢十聖も測って闚所にあらず、と釈し給へり。
『一遍上人語録』巻下-46
この教えを見ていくと、我々自身の認識が、その都度誤っている可能性を持っていることを知ります。ましてや、相手は非常に偉大で、その慈悲の広さが我々の発想を超える阿弥陀仏の「聖意」について、安易に理解出来ると考えるのは誤っているとできましょう。拙僧は、この一遍上人の教えを見たときに、次のような一節を思い出しました。
神の存在を信じることができれば、信じる者の幸福に役立つかもしれない。だが、神が存在するとしても、「神の正しさ」を人が誤りなく認識できるということにはならない。神は全能かもしれないが、人はそうではない。神の意志を誤解する可能性は常にある。
神のような意志を備えた存在ではなく、自然法則のように客観的に妥当する「正しさの法則」によって絶対的な「正しさ」が決まると考えても、事情は変わらない。絶対的な正しさの法則を、人間が正しく理解できるかどうかはわからないからだ。
小林和之氏『「おろかもの」の正義論』(ちくま新書・2004年)25頁
つまり、ここで小林氏は、例え神の教えを知る状況にあったとしても、その知った内容が本当に、神の御心に契うかどうかは、少なくとも「有限」なる存在に過ぎない人間のあらゆる能力を使っても、不可能だというわけであります。正確には、不可能か可能かが「わからない」ことこそ、最大の問題であるといえましょう。
拙僧は、この小林氏が述べられる「懐疑」について、おそらく一遍上人も完全に共有されている発想であると信じます。そして、逆にこの阿弥陀仏の偉大さによって得られた「相対的有限さ」こそが、我々をして、阿弥陀仏への信仰に誘う契機であるとできましょう。人間、自分で何でもできれば、それだけで他の偉大な、絶対的存在を不要とします。しかしながら、実際には、この不要さというのは、ただの誤解に過ぎない人間の「全能感」がもたらしている発想に過ぎず、その意味で、この全能感に浸って、神の不要を説いても何の状況改善ももたらされないわけです。ただ、なんとなく気分が良いだけ、となるでしょう。
そうであるならば、むしろ一遍上人のように、阿弥陀仏というのは我々自身の凡夫の感覚に於いては理解出来ない存在であると覚悟して、そういう不可知的存在にしておいた方が、念仏の修行者を、無限なる向上につなげるという意味でも、有効だと思われるのです。そして、この謙虚な学びは、生きとし生けるものに幸運をもたらすことでしょう。
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