つらつら日暮らし

恵心僧都源信の『白骨観』

『大日本仏教全書』の24巻には、天台宗に関する文献が多数収められているのですが、中でも、1巻として独立させるほどではないにせよ、小部で貴重な著作が『天台小部集釈』として収録されています。実は、そこに収録されている『草木発心修行成仏記』を見たくて探していた時に、ついでに源信の『白骨観』を読んでみたら面白かったので、ブログの記事にしてみようと思います。

 此の骨は、我為りや、我に非ざる為りや。
 答えて謂う「我に非ずも、身を離れず。自他彼此共に白骨なり。身命財の三、離散する時、ただ白骨のみ残りて野外に在り。予の年齢、既に七旬に満つる。既に此の白骨を顕すこと須臾なり。悲しき哉、此の白骨を顧みず、名利の心地常に断ぜず、手を以て摩で触るに何ぞ穏やかなること有らん。倩(つらつら)、一期の栄華を思案して、ただ白骨を帯びて歳月を送る。白骨上に衣裳を装着して、白骨の身を以て、ただ世を渡るのみ。此の白骨久しく世に在らざれども、憑いても憑き難きは、薄皮白骨なり。願わくは仏神よ、此の白骨を哀れんで、臨終正念に往生を遂げんことを」と。


名利に染まった自身を懺悔し、そして往生を願うあたり、天台浄土教の構築に大きな寄与をした源信らしい文面のような気がします。一応、問答体になっていますけど、自問自答の場合もあるから、この場合はあまり気にしなくて良いのですが、いわゆる、我らの身体の中にある白骨を、自分の物とすべきかどうかを尋ねているわけです。「我」を実体と考えることも出来ますが、ここでは、「私」の意味で取ります。

そこで、源信は、自分も他人も、かの人もこの人も、全ては白骨であるといい、それは、あらゆる世俗的な価値観に掩われた我々自身が死んだ後に、最後に残る物が白骨であることから明らかにしています。通常、白骨観というと、色欲が起きて、相手に対し性的な欲求が起きた時に、相手が白骨であることを観取して、その欲望を抑えるために使われます。しかし、源信はそれよりも一歩を踏み込んで、我々に具わる白骨が、どのような位置づけにあるかを明らかにしようとしています。

しかし、内容的には両者ともに同じであるといえるでしょうか。通常は色欲ですが、今回は、「白骨」が、必ず死んでしまう自分自身への反省のために使われています。源信の反省は、出世欲・名利心だったようです。他人よりも偉くなりたい、他人よりも少しでも良い立場になりたい、このような無軌道な争いが、執着を生み出るわけです。しかし、そんな争うべき相手も、自分自身も、しょせんは白骨なのです。源信は、淫欲のみならず、諸欲の対象として「他者」を見ないようにするために、「白骨観」を用いていると考えるべきでしょう。

良く、「死んでしまえば全て終わり」というような感じで、世を無常なものと見る努力をする人がおりますが、しかし、これは余りに捨て鉢とでもいうべき態度です。むしろ、源信のように、無常の表れたる「白骨」の存在ではあるけれども、今ここで「皮肉」を持って生きていることを自覚しながら、更にどのように生きるべきかを考える方が、よほどましだといえましょう。どうにも、「死んでしまえば云々」は、思考として極端に過ぎるような感じがします。そして、極端すぎる思考は、仏教に似つかわしくないですね・・・

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> bkbnp さん

> 諦観を単に諦めてしまうことって理解している人って多分多いですよね。

そうですね。しかし、物事を明らかにするという意味でも捉えていきたいところです。

> 慚愧→相対的な自己だとの気づき、ここで捨て鉢になるか、いやいやそんな私だけれども(真宗の場合はそんな私だからこそでしょうか)、と考えられるかでは真逆にたどり着くのでしょうね、多分。

拙僧どもは、一般的に「自力」の宗教とか言われていますから、どこか、「捨て鉢」はダメだということになると思うのですが、帰依とか不惜身命とかいわれることと混同される場合が多そうですね。
bkbnp
http://9marcos.blog86.fc2.com/
失礼します。
諦観を単に諦めてしまうことって理解している人って多分多いですよね。
慚愧→相対的な自己だとの気づき、ここで捨て鉢になるか、いやいやそんな私だけれども(真宗の場合はそんな私だからこそでしょうか)、と考えられるかでは真逆にたどり着くのでしょうね、多分。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> 無門 さん

確かに難しそうですね。
肉への欲望を無くすことが出来れば、一気に欲望は減りそうですけどね。身体という装置への自由を獲得できるのでしょう。
無門
欲望の対象から外すために行われる修行だということですね。自分を骨だと思えたなら、欲望は大きく減りそうだとは思います。難しそうですが。
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